2025年2月20日木曜日

佛智不思議につけしめて

我執の色眼鏡

 凡夫の正体は「我執」と「我愛」と「我慢」である。我執があると、考えることも佛の考えと違い、智慧も力も違ってくる。我執を離れて見た天地は、また格別であるが、凡夫には想像もつかぬ。
 凡夫は我執の色眼鏡をかけて万物を見るから、万物の実相は分からぬ。自分のことも分からぬ。人間でありながら人間が分からぬ。
 自分の心も、自分の業も分からぬ。生まれたままの凡夫で、救われていくのである。
  

佛智の眼

 如来の本願力は、衆生往生の大道である。
 この願力の大道が信ぜられると、佛智の眼をいただくから、自分のあさましいことが分かる。罪悪生死の凡夫ということが分かる。凡夫の智慧では「佛」も「法界」も「心」も「自己」も分からぬ。また業道のおそろしいことも分からぬ。
  

こういう不思議

 信心は、自分の力で取るものではない。佛智不思議を、不思議と仰ぐものである。
 佛智を信ずるのと、佛智が自分の身心に入り充つるのとは同時である。名号を信受すると、名号の功徳が我がものとなる。
 こういう不思議が、佛法不思議というものである。
  

本願力のよびごえ

 一心一向になる人が少ない。自分の生死を問題として、佛語を仰いで、一心一向にならなければ、佛智の不思議は信ぜられるものでない。
 苦しみ抜いた挙げ句に、光るものは「本願力のよびごえ」である。生死の旅も、如来が旅連れになっていてくださるから、苦しいけれども、また楽しい。
  

絶対界の風光を仰ぐ

 とかく人間は、生きておる間は相対の世界に住んでおって、相対の世界から一歩も出ることが出来ない。大信心は絶対界の風光、すなわち佛智を仰ぐこころである。
  

いのちと光の道

 佛教は絶対の真理であるが、凡夫は容易に「空・無我」の真如三昧に入ることは出来ぬ。歴史的研究をいくらやったところで、歴史は佛法ではない。佛を信ずるいのちと光の道が、佛法であり、佛道である。
  

本願一実の大道

 本願一実の大道は、両手広げて立ってござる如来様のすがたである。それに凡夫の方では何とか彼とか言うて、はかろうて、尻込みをしておる。
  

白道が動き出した

 本願の白道はいつもおっぴらいておるが、なかなか渡る人がないと見える。もうもう白道が辛抱しきれなくなって、ぴりぴりこちらの方へ動き出してきた。よびごえが白道じゃ。
 よびごえに打たれ切ったところが白道であり、白道に乗せられたのであり、信心である。
  

一乗大智願海

 佛法は、大海のごときものである。入れば入るほど深く、漕ぎ出ずれば出ずるほど広い。
  如来の一乗大智願海がこれだ。本願海は如来の「まこと」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

2025年2月15日土曜日

凡夫

 真宗において大切なことは、自分が凡夫でありながら「凡夫」ということが分からぬ。凡夫というものは、

 「そらごと、たわごと、まことあることなし」(歎異抄)

 「妄念の外に心はなきなり」(横川法語)

 「ともに是れ凡夫のみ」(十七条憲法)

と。自分が凡夫でありながら、凡夫たることが分からぬから「自力のはからい」を出すのである。凡夫のすがたを、徹底的に解明してくださったのが「機の深信」である。

 「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」

と。こういう凡夫でありながら、「早く信心がいただきたい」などと思うのは、あまりに虫が良すぎるというものである。「お浄土へ参りたい」も結構であるが、脚下の地獄の猛火をどうするのか。落ちることを知らぬ者は助からぬ。「機の深信」が無ければ「法の深信」も無し。
 信心は「知識」や「思い」ではない。佛力である、本願力である。凡夫のくせに、凡夫たることが分からぬような者は助からぬ。お浄土参りには、地獄行きの稽古をする方が近道である。悪は皆罪である。煩悩は皆罪である。妄念は皆罪である。

  「濁世の起悪造罪は何ぞ暴風駛雨に異ならん」(道綽禅師)

と。釈迦如来は、衆生が雨風動乱のごとくあまりに激しく罪を造るので、「驚いて火宅の門に入る」と、此の世に出現あらせられたのである。

 毎日毎日魚鳥や肉類を食べて少しも罪と思わぬほど人間は堕落してしまった。生きんとするための慾は皆罪である。自分の罪を忘れて「信心」という牡丹餅を取ろうとしておる。佛教徒も堕落したものだ。これが末世である。罪の自覚を百点とし、本願力を百点と仰ぎ切ったのを信心という。
 佛を忘れ、凡夫を忘れ、罪の自覚の無い者は、助からぬ。「無常」と「因果」を知らぬ者は往生できない。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

2025年2月10日月曜日

如来にはからわれて 生死を超える

 佛教は佛陀の教説であり、生死出ずべき道であり、また佛陀の悟られた法界の大真理である。生死出ずべき道は、禅定と大信心あるのみである。
 禅定とは、息慮凝心して空・無我を悟り、境智冥合の域に至るをいう。大信心とは「無碍の光耀」が「無明の闇」を破するをいう。生死罪濁の凡愚は、阿弥陀如来の光明名号の外に生死出ずべき道は無い。
 阿弥陀如来は大慈大悲の親様である。五濁悪世のわれらこそ、金剛の信心ばかりにて永く生死を捨てはてて、自然の浄土に到る。これまた佛智大悲の御はからいである。これを「自然法爾」という。凡夫小智の「はからい」は、皆これ妄念の圏内である。法界はただ無碍光の照耀あるのみ。大信心は無碍光の流れに乗ずるのみである。
 自分が信心取った、いただいた、と「自分」が出たら皆自力。他力とは、如来の本願力に流されて、親の里に帰るのを「他力」という。

 他力の中の自力、これを二十願といい、また十九願という。「どうしたら参れるか」「何ぞして参ろう」と気を遣う。早やこれ自力の泥田に落ち込んでいるのである。
 「そのまま来たれ」の勅命の外に、こちらから持ち出す信心は無し。如来様は「そのまま来たれ、お浄土で待っておるぞ」とのたもう。
 自力の角を振り立てておれば往生は難中の難、如来にまかせたてまつれば易中の易である。もう命はあと一分間、如来にまかせたてまつるより外に、往生極楽の道はない。

 「極楽の道は一すじ南無阿弥陀、わき見をするな、考えな。」

 凡夫の思いは皆自力。思案工夫をしたとても、地獄の業の外はない。地獄行きを、そのまま助くる御本願。心も言葉も絶えはてて、不可思議尊を帰命する。

 信心を取ろう取ろうと幾十年。

 「勢つきて 汲み上げられし 蛙かな」

 佛法は難しいぞと言えば尻込みをする。易いぞと言えば、如来様まで馬鹿にする。業報まかせと言いながら、苦労せぬ人、いただけぬ。信心は苦労の枝の先に咲く。
 凡夫が佛に成るほどの大事業、なめておったら皆落ちる。本願力は大きいで、落ちる衆生を、そのままで。佛智の不思議は不思議なり、大悲の不思議は不思議なり。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

念佛のうた㈠

私は「ただ念佛して」を拝して、そのこころを歌に詠んだ。    念佛のうた 佛法は 耳で聞いて 眼で聞いて 心で聞いて 身で聞いて 身に佛法が つくことは これ上上の 聞きかたか 「無常」を観じ 念じつめ 後生のことに おどろいて 透れぬ関所に ぶちあたり 「解脱の耳」を 振り立て...