佛法を離れている
人生と佛教、社会と佛教といったことを、当節はやかましく論じたてるのであるが、その論ずる人が「信」もなく「涅槃」を目標としておらぬから、話は根本的に佛教を離れている。
佛教が何の役に立つか
佛法を聞いて、それが人生の何の役に立つかという人が多い。佛法が無かったら、心が乱れ、悪いことをして命までも短くする。如来の護りをよろこび、日々心をしずかに仕事に勤しむことができるのは、佛法のおかげである。今日のいのちは、佛より賜ったものである。これほど大きな利益はない。世の中の人は、水に入らずして水泳を論じておるようなものである。
煩悩にも恩がある
逆境も苦しみも、考えようによっては、それがあるから、私が今日まで命をつないでおる。意思に対して反抗するものがなかったら苦しみはない。苦のなきところ楽もない。死骸同然の生活であろう。そうでなかったら、「我執」からいろいろ悪い事ばかりするであろう。煩悩もあり、苦しみもあるから「涅槃」に到ることができるのである。煩悩にも恩がある。
如来の家
「三界に家なし」とは私のことである。極楽に参らせていただいたら直ぐに本願力に乗じて衆生済度に十方に身を現じて、如来のお手伝いをさせていただく。それが如来の家というものである。
今しばらくの辛抱
佛法の大海には、いろいろ深いむずかしい真理があるが、今しばらくの辛抱じゃ。往生すれば、直ぐに佛眼をいただくから何もかも手に取るように分かるであろう。凡夫の皮を被っておる間は、真如も実相も、天上の月である。
天地は一枚
佛法は無我である。佛に成れば、我執我愛なき清浄真実の活動がある。我執なき天地は一枚である。柳は緑、花は紅である。
迷いの根本
神が天地万物を造ったということを信じておるものが多い。「何のために造ったか」と問う人が少ない。それに答え得るものはない。
もとより天地創造説は、人間の妄想から出た説である。人間の迷いの根本は、こういうところにある。
稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)