2025年4月15日火曜日

和讃と歎異抄の味わい⑺

 禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある。出来上がった禅僧は決してお経を粗末にしない。
 かつて、天龍寺の管長 峨山和尚に十五年間ついておられた但馬第一の碩学 福山東山という禅師がおられた。ある日、私が禅師を但馬の禅室に訪問したとき、禅師は私に向かって、

  「この頃はお陰様で、どんなお経を読んでも、なるほどゝゞとうなづけるようになった」

と申され、「若不生者 不取正覚」で三時間快談したことがあった。

 佛法は、お経や祖師聖人の聖教を敬い尊ぶところに信心はおこる。佛語を措いて信心の確立はない。また、一句の法門を徹底的に、何十回何百回となくいただき、明け暮れ、念頭から離さず、何十年とそれを憶い念いするところに、大信心の暁に出ることができる。
 『歎異抄』で申すならば、

  「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて往生をばとぐるなり」

  「ただ念佛して弥陀に助けられまゐらすべし」

  「念佛は行者のために非行非善なり」

  「念佛者は無碍の一道なり」

  「念佛には無義をもて義とす、不可称不可説不可思議のゆへに」

などの句である。どの句でも、心の底からうなづかれるまで聞き、学び、究め、憶うことが大切である。やりおおせたならば、元の木阿弥、阿弥陀如来は前にばかりおられないで、心の底へ回って、私のすべての思いを無益にしてくださる。それも自身の往生とにらみ合わせて深く味わうべきである。
 死を念い、自身の往生を思わずしてお聖教を読み、お聖教を講釈したところで、それは上辺のかざりで、何の役にも立たぬ。ある意味において、お聖教をもてあそぶ人である。
 これに反して、死と組み打ちしてお聖教をいただく人は、眼光紙背に徹するものがある。

  「『末代無智』と『聖人一流』の御文を百遍いただいてみよ、そしたら信が得られる」

といった妙好人がある。当節は、どの宗派の人も、僧俗共に死と組み打ちしておる人が少ないように見受けられる。悲しいことだ。

2025年4月10日木曜日

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして

 「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。
 ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛に力こぶを入れ、念佛を己が積む善根と思い、真実報土の往生を遂げない人もあろう。
 また、人まねばかりの念佛を行じて往生を仕損ずる人もあろう。また「念佛せよ」とあるからといって、念佛して如来の本願に自分の方から添おうと自力心を運ぶ人もあろう。また、何のことやら分からぬ輩もあるであろう。
 「ただ念佛して」と聞いて、念佛を称えて参ろう、と自力心を運ぶ人は、ただ表面の文字だけを読んで、本願のこころをいただき得ない人である。「語中に語無し」とは、その種の人を諭す言葉である。念佛を正定業と思いはからうすら、凡夫自力のくわだてである。

 お聖教の文字は、本願力を信じた人には、字字ことごとく、法身・般若・解脱の光明とも見られ、また親鸞聖人の法身とも見られ、また如来様とも拝みたてまつられるであろう。かかる場合には、その人は、文字を読んで文字を離れている。離れているが、文字をいただいている。
 お聖教の文字を活かすものは信心である。これを殺すものは疑心自力である。ただただ恭敬の心をもっていただくべきである。たとい一句の法門でも、これ以外に自分の助かる道がないと思えば、地獄で佛に逢うた思いをもって深く味わい、篤く貴ぶことができる。
 法霖師は『日渓学則』に、離るるは則するなり、則するは離るるなり」と申された。これが円解証入(真実の信心)の人である。

稲垣瑞劔師「法雷」第92号(1984年8月発行)

2025年4月5日土曜日

空手にて いたゞく寳 無尽蔵


 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。
役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。
「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。
念佛者は、信心歓喜の生活である。

稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)

2025年3月20日木曜日

和讃と歎異抄の味わい⑸

       三、一念一無上

 病気のために神様にお百度参りでもして祈願を込めると、なんだか神様が願い事を聞いてくださったような、多少心に「頼り」ができた感じがする。ところが実際はどうか分からぬ。お金を出して祈祷をしてもらう場合も同様である。それが大金を出して祈祷してもらって、不幸にして病人が死んだとすると、今まで神様を命の柱とも思って信じておったのが、たちまち呪いの心と変わる。「あれほどまでにお願いしたのに聞いてくださらぬとは、えい、神も仏もあったものか」と、昨日の信心は今日の呪いと早変わりする。まあ、人間の心はこんなものである。
 念佛する人も、「どうぞ、どうぞ」と佛樣にお願いする気持ちでお念佛すると、少しばかり「頼り」があるように思う。しかしそのような思いは、浮かべる雲のごとく、不安が雑(ま)じり、疑いが雑(ま)じっておる。それゆえ、その「頼り」を増やそうとより一層お念佛する。それでは「ただ念佛して」の味は分からぬ。
 「ただ念佛して」の念佛は、百遍でも、十遍でも、一声の念佛でも、変わりはない。他力の念佛は、

 「一念一無上、十念十無上、百念百無上、千念千無上」(選択集)

である。我が「はからい」で称える念佛でないから、一声でも満点、百声でも満点である。自力の念佛はこういう調子にいかぬ。自力の念佛は、一声より十声の念佛の方が功徳が大きい、利益が多い、と思うものである。
 他力の念佛は、念佛しておるままが南無阿弥陀佛である。念佛しておるままが信心であるから、「一念一無上、十念十無上、百念百無上、千念千無上」である。往生は南無阿弥陀佛の功徳力にて往生するのである。

 御開山様は、「乃至十念」の称名について、

 「選択易行の至極を顕開す」

と申され、善導大師は、

 「十声、一声、聞等に至るまで」

と申された。そういう風にお聞かせにあずかると、なるほどと思う。けれども「頼り」がないように思う。阿弥陀様がお返事をしてくださらぬから、阿弥陀様が眼に見えぬから、どうももう一つ安心ならぬと思う。
 凡夫は、眼で見るか返事を聞くか、少しでも何か自分の方から努め励んでゆかぬと気が済まぬ自力根性の持ち主である。久遠の昔から、自力心を出しづめにしておった習慣がついておるから、まことに厄介な代物である。往生は、南無阿弥陀佛の不可思議功徳の放射能と、悪業煩悩を如来のよき心と同じものにしてくださる同化作用とによって、我々は易々と往生させていただくのである。
 眼で見るのを「眼見(げんけん)」といい、耳で聞いて信をおこすのを「聞見(もんけん)」という。凡夫は煩悩に眼を障えられて、摂取の光明を見ることができぬ。それゆえ、凡夫に如来の大慈悲心を伝えるには、どうしても「聞見」によらねばならぬ。
 称名でも、念佛でも、憶念でも、信心でも、南無阿弥陀佛でも、佛智でも、大慈悲心でも、いずれも皆往生浄土のたねではあるが、私たちが如来様に救われてゆく正しい経路といえば、耳から名号が入ってくだされて、その威神功徳不可思議にとりこにされ、自ずから口にあらわれて報謝の称名念佛となる。これが一番正しい順序である。だが、聾唖の人でも大信心を得る人がある。そこが不思議の願力である。

 信心の中味は名号であり、如来の大慈悲心であり、勅命であり、本願力である。念佛の中心は信心である。信心の無い念佛は真宗の念佛でない。『歎異抄』にある、

 「ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし」

の「ただ念佛」は、自力の心が少しも雑(ま)じってない、純一無雑(じゅんいつむぞう)の念佛、「本願円頓一乗」の念佛である。それゆえ「ただ念佛」とは、ただただ本願海の流れに乗じたすがたである。このほかに凡夫が助かる道はない。
 「ただ念佛して」を言い換えると、「ただ本願海の流れに乗じて」とか、「本願力に乗じて」とかという意味である。これが真宗念佛の眼目である。

 さて、「本願力に乗ずる」とは、どういうことであるかというと、如来の大悲心と無碍の佛智に押され、引かれて易々とお浄土へ参らせていただくことである。これが「ただ念佛して」の味わいである。
 如来様は私と苦楽を共にしてくださる。正覚までも共にしてくださる。こういただけば、往生は易中の易である。うたがいやはからいがあると、「ただ念佛して」もむつかしくなり、往生を仕損ずる。

 大いなる もののちからに ひかれゆく
   わがあしどりの おぼつかなしや(九条武子)

 行け来いの 中でわするる おのれかな(瑞劔)

稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)

2025年3月10日月曜日

念佛のうた㈡

念佛のうた

三宝(佛・法・僧)信じ 業(ごう)信じ
三世の因果 信ぜよや
久遠のやみは 「無碍光」に
とうとう負けて 晴れました
晴れたすがたは 南無阿弥陀

我が往生は 南無阿弥陀
ひとりよろこぶ 佛法も
「身にもあまりて」 尽十方
ひとしくひとえに 弘めなん

如来と私の 親しみは
炭に火のつく ごとくなり
離れ離れは そら駄目じゃ
鼻に掛けぬが 佛法で
「常行大悲」が 佛法じゃ
如来のお仕事 佛法じゃ
如来のお仕事 南無阿弥陀

喚ばうて助くる 本願力
ああ忝い 「我もまた
彼の摂取の 中にあり」
佛法聞いて 身につかば
身をばはなれて 月一輪

佛智不思議に 雲霧も
はれて今宵は すがすがし
火車来現は あたりまえ
死ぬる今際の きわまでも
「うろうろもの」で ありまする
なんぼ聞いても 「あかなんだ」
凡夫の自性は 玉ねぎで
むいてもむいても 皮ばかり
わたしも佛法 九十年
もがいてみたが あかなんだ
ちょろこい聞きかた 何になる
天狗か不安か 猿まねじゃ
「うろうろもの」と 銘打って
出てくる「佛弟子」 逢いたいな

死ぬるにきまった この我は
死ぬることだけ 間違わぬ
思い・行い 善い事の
出来ぬこの身も 死ぬだけは
否でも応でも やってくる  

死ぬる問題 解けたなら
「正直」「勤勉」「親切」と
「学」「徳」「信」で やりましょう
この心得が ない故に
佛法だんだん 衰える

如来は親様 「見てござる」
「護って」「待って」 ござるぞよ
露の命が 終わったら
「法性常楽」 お浄土じゃ
佛智の不思議は 不思議なり
願力自然は 不思議なり
「義なきを義とす」と 信知せよ
「ただ念佛して」の ただの味
あらおもしろや おもしろや


南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)

2025年3月5日水曜日

念佛のうた㈠

私は「ただ念佛して」を拝して、そのこころを歌に詠んだ。
  

念佛のうた

佛法は
耳で聞いて 眼で聞いて
心で聞いて 身で聞いて
身に佛法が つくことは
これ上上の 聞きかたか

「無常」を観じ 念じつめ
後生のことに おどろいて
透れぬ関所に ぶちあたり
「解脱の耳」を 振り立てて
聞くのでなければ 似せものか

生死のことは 大きいぞ
「大きな佛法」 南無阿弥陀
「無碍の佛智」の ひとり立ち
仰ぐこころも 南無阿弥陀
佛智即行 おもしろや

如来のお顔を 見てみれば
「心配するな」と 声がある
声が如来か 如来が声か
大悲の声に つつまれて
日ぐらし あさまし はずかしい

「信は願より生ずれば 念佛成佛 自然なり」
六字の願力 自然なり
「自然」を仰ぐも 我れならず
自然の願力 無理はない
無理があっては 落ちまする

病気貧乏 世の責め苦
無理と無精と 欲深と
我が身知らずが その本か
「道心」持って 法聞かば
この世の福寿 きわもなく
衣食はおのずと ついてくる

佛法力の 不思議にて
因果業報 あるまままに
自然の浄土に 入ることは
佛智 大悲 本願力
南無阿弥陀佛の 不思議なり

「自然」「自然」と つねに言い
はからい 語れば 逃げまする
「ことば」「説明」 そらあかん
だまっていても そらあかん
こちらに用事は ないわいな

逃げない願力 「摂取不捨」
「若不生者」の およびごえ
「南無と帰命」は およびごえ
「南無」の二字が 成就して
あるのも知らず うかうかと
まだ「はからい」や つっぱりを
探しもとむる 人あわれ
信心を 探す闇夜の盲人(めしい)かな

「願力無窮」に 眼がついて
不思議に私に しみわたり
知らずに出づる お念佛
散乱放逸 いつ見ても
願力無窮 いつ見ても
「ああ、ありがたい、忝い」
おもうも言うも おろかなり

稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)

和讃と歎異抄の味わい⑺

 禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある...