2025年3月20日木曜日

和讃と歎異抄の味わい⑸

       三、一念一無上

 病気のために神様にお百度参りでもして祈願を込めると、なんだか神様が願い事を聞いてくださったような、多少心に「頼り」ができた感じがする。ところが実際はどうか分からぬ。お金を出して祈祷をしてもらう場合も同様である。それが大金を出して祈祷してもらって、不幸にして病人が死んだとすると、今まで神様を命の柱とも思って信じておったのが、たちまち呪いの心と変わる。「あれほどまでにお願いしたのに聞いてくださらぬとは、えい、神も仏もあったものか」と、昨日の信心は今日の呪いと早変わりする。まあ、人間の心はこんなものである。
 念佛する人も、「どうぞ、どうぞ」と佛樣にお願いする気持ちでお念佛すると、少しばかり「頼り」があるように思う。しかしそのような思いは、浮かべる雲のごとく、不安が雑(ま)じり、疑いが雑(ま)じっておる。それゆえ、その「頼り」を増やそうとより一層お念佛する。それでは「ただ念佛して」の味は分からぬ。
 「ただ念佛して」の念佛は、百遍でも、十遍でも、一声の念佛でも、変わりはない。他力の念佛は、

 「一念一無上、十念十無上、百念百無上、千念千無上」(選択集)

である。我が「はからい」で称える念佛でないから、一声でも満点、百声でも満点である。自力の念佛はこういう調子にいかぬ。自力の念佛は、一声より十声の念佛の方が功徳が大きい、利益が多い、と思うものである。
 他力の念佛は、念佛しておるままが南無阿弥陀佛である。念佛しておるままが信心であるから、「一念一無上、十念十無上、百念百無上、千念千無上」である。往生は南無阿弥陀佛の功徳力にて往生するのである。

 御開山様は、「乃至十念」の称名について、

 「選択易行の至極を顕開す」

と申され、善導大師は、

 「十声、一声、聞等に至るまで」

と申された。そういう風にお聞かせにあずかると、なるほどと思う。けれども「頼り」がないように思う。阿弥陀様がお返事をしてくださらぬから、阿弥陀様が眼に見えぬから、どうももう一つ安心ならぬと思う。
 凡夫は、眼で見るか返事を聞くか、少しでも何か自分の方から努め励んでゆかぬと気が済まぬ自力根性の持ち主である。久遠の昔から、自力心を出しづめにしておった習慣がついておるから、まことに厄介な代物である。往生は、南無阿弥陀佛の不可思議功徳の放射能と、悪業煩悩を如来のよき心と同じものにしてくださる同化作用とによって、我々は易々と往生させていただくのである。
 眼で見るのを「眼見(げんけん)」といい、耳で聞いて信をおこすのを「聞見(もんけん)」という。凡夫は煩悩に眼を障えられて、摂取の光明を見ることができぬ。それゆえ、凡夫に如来の大慈悲心を伝えるには、どうしても「聞見」によらねばならぬ。
 称名でも、念佛でも、憶念でも、信心でも、南無阿弥陀佛でも、佛智でも、大慈悲心でも、いずれも皆往生浄土のたねではあるが、私たちが如来様に救われてゆく正しい経路といえば、耳から名号が入ってくだされて、その威神功徳不可思議にとりこにされ、自ずから口にあらわれて報謝の称名念佛となる。これが一番正しい順序である。だが、聾唖の人でも大信心を得る人がある。そこが不思議の願力である。

 信心の中味は名号であり、如来の大慈悲心であり、勅命であり、本願力である。念佛の中心は信心である。信心の無い念佛は真宗の念佛でない。『歎異抄』にある、

 「ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし」

の「ただ念佛」は、自力の心が少しも雑(ま)じってない、純一無雑(じゅんいつむぞう)の念佛、「本願円頓一乗」の念佛である。それゆえ「ただ念佛」とは、ただただ本願海の流れに乗じたすがたである。このほかに凡夫が助かる道はない。
 「ただ念佛して」を言い換えると、「ただ本願海の流れに乗じて」とか、「本願力に乗じて」とかという意味である。これが真宗念佛の眼目である。

 さて、「本願力に乗ずる」とは、どういうことであるかというと、如来の大悲心と無碍の佛智に押され、引かれて易々とお浄土へ参らせていただくことである。これが「ただ念佛して」の味わいである。
 如来様は私と苦楽を共にしてくださる。正覚までも共にしてくださる。こういただけば、往生は易中の易である。うたがいやはからいがあると、「ただ念佛して」もむつかしくなり、往生を仕損ずる。

 大いなる もののちからに ひかれゆく
   わがあしどりの おぼつかなしや(九条武子)

 行け来いの 中でわするる おのれかな(瑞劔)

稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)

2025年3月10日月曜日

念佛のうた㈡

念佛のうた

三宝(佛・法・僧)信じ 業(ごう)信じ
三世の因果 信ぜよや
久遠のやみは 「無碍光」に
とうとう負けて 晴れました
晴れたすがたは 南無阿弥陀

我が往生は 南無阿弥陀
ひとりよろこぶ 佛法も
「身にもあまりて」 尽十方
ひとしくひとえに 弘めなん

如来と私の 親しみは
炭に火のつく ごとくなり
離れ離れは そら駄目じゃ
鼻に掛けぬが 佛法で
「常行大悲」が 佛法じゃ
如来のお仕事 佛法じゃ
如来のお仕事 南無阿弥陀

喚ばうて助くる 本願力
ああ忝い 「我もまた
彼の摂取の 中にあり」
佛法聞いて 身につかば
身をばはなれて 月一輪

佛智不思議に 雲霧も
はれて今宵は すがすがし
火車来現は あたりまえ
死ぬる今際の きわまでも
「うろうろもの」で ありまする
なんぼ聞いても 「あかなんだ」
凡夫の自性は 玉ねぎで
むいてもむいても 皮ばかり
わたしも佛法 九十年
もがいてみたが あかなんだ
ちょろこい聞きかた 何になる
天狗か不安か 猿まねじゃ
「うろうろもの」と 銘打って
出てくる「佛弟子」 逢いたいな

死ぬるにきまった この我は
死ぬることだけ 間違わぬ
思い・行い 善い事の
出来ぬこの身も 死ぬだけは
否でも応でも やってくる  

死ぬる問題 解けたなら
「正直」「勤勉」「親切」と
「学」「徳」「信」で やりましょう
この心得が ない故に
佛法だんだん 衰える

如来は親様 「見てござる」
「護って」「待って」 ござるぞよ
露の命が 終わったら
「法性常楽」 お浄土じゃ
佛智の不思議は 不思議なり
願力自然は 不思議なり
「義なきを義とす」と 信知せよ
「ただ念佛して」の ただの味
あらおもしろや おもしろや


南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)

2025年3月5日水曜日

念佛のうた㈠

私は「ただ念佛して」を拝して、そのこころを歌に詠んだ。
  

念佛のうた

佛法は
耳で聞いて 眼で聞いて
心で聞いて 身で聞いて
身に佛法が つくことは
これ上上の 聞きかたか

「無常」を観じ 念じつめ
後生のことに おどろいて
透れぬ関所に ぶちあたり
「解脱の耳」を 振り立てて
聞くのでなければ 似せものか

生死のことは 大きいぞ
「大きな佛法」 南無阿弥陀
「無碍の佛智」の ひとり立ち
仰ぐこころも 南無阿弥陀
佛智即行 おもしろや

如来のお顔を 見てみれば
「心配するな」と 声がある
声が如来か 如来が声か
大悲の声に つつまれて
日ぐらし あさまし はずかしい

「信は願より生ずれば 念佛成佛 自然なり」
六字の願力 自然なり
「自然」を仰ぐも 我れならず
自然の願力 無理はない
無理があっては 落ちまする

病気貧乏 世の責め苦
無理と無精と 欲深と
我が身知らずが その本か
「道心」持って 法聞かば
この世の福寿 きわもなく
衣食はおのずと ついてくる

佛法力の 不思議にて
因果業報 あるまままに
自然の浄土に 入ることは
佛智 大悲 本願力
南無阿弥陀佛の 不思議なり

「自然」「自然」と つねに言い
はからい 語れば 逃げまする
「ことば」「説明」 そらあかん
だまっていても そらあかん
こちらに用事は ないわいな

逃げない願力 「摂取不捨」
「若不生者」の およびごえ
「南無と帰命」は およびごえ
「南無」の二字が 成就して
あるのも知らず うかうかと
まだ「はからい」や つっぱりを
探しもとむる 人あわれ
信心を 探す闇夜の盲人(めしい)かな

「願力無窮」に 眼がついて
不思議に私に しみわたり
知らずに出づる お念佛
散乱放逸 いつ見ても
願力無窮 いつ見ても
「ああ、ありがたい、忝い」
おもうも言うも おろかなり

稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)

2025年2月20日木曜日

佛智不思議につけしめて

我執の色眼鏡

 凡夫の正体は「我執」と「我愛」と「我慢」である。我執があると、考えることも佛の考えと違い、智慧も力も違ってくる。我執を離れて見た天地は、また格別であるが、凡夫には想像もつかぬ。
 凡夫は我執の色眼鏡をかけて万物を見るから、万物の実相は分からぬ。自分のことも分からぬ。人間でありながら人間が分からぬ。
 自分の心も、自分の業も分からぬ。生まれたままの凡夫で、救われていくのである。
  

佛智の眼

 如来の本願力は、衆生往生の大道である。
 この願力の大道が信ぜられると、佛智の眼をいただくから、自分のあさましいことが分かる。罪悪生死の凡夫ということが分かる。凡夫の智慧では「佛」も「法界」も「心」も「自己」も分からぬ。また業道のおそろしいことも分からぬ。
  

こういう不思議

 信心は、自分の力で取るものではない。佛智不思議を、不思議と仰ぐものである。
 佛智を信ずるのと、佛智が自分の身心に入り充つるのとは同時である。名号を信受すると、名号の功徳が我がものとなる。
 こういう不思議が、佛法不思議というものである。
  

本願力のよびごえ

 一心一向になる人が少ない。自分の生死を問題として、佛語を仰いで、一心一向にならなければ、佛智の不思議は信ぜられるものでない。
 苦しみ抜いた挙げ句に、光るものは「本願力のよびごえ」である。生死の旅も、如来が旅連れになっていてくださるから、苦しいけれども、また楽しい。
  

絶対界の風光を仰ぐ

 とかく人間は、生きておる間は相対の世界に住んでおって、相対の世界から一歩も出ることが出来ない。大信心は絶対界の風光、すなわち佛智を仰ぐこころである。
  

いのちと光の道

 佛教は絶対の真理であるが、凡夫は容易に「空・無我」の真如三昧に入ることは出来ぬ。歴史的研究をいくらやったところで、歴史は佛法ではない。佛を信ずるいのちと光の道が、佛法であり、佛道である。
  

本願一実の大道

 本願一実の大道は、両手広げて立ってござる如来様のすがたである。それに凡夫の方では何とか彼とか言うて、はかろうて、尻込みをしておる。
  

白道が動き出した

 本願の白道はいつもおっぴらいておるが、なかなか渡る人がないと見える。もうもう白道が辛抱しきれなくなって、ぴりぴりこちらの方へ動き出してきた。よびごえが白道じゃ。
 よびごえに打たれ切ったところが白道であり、白道に乗せられたのであり、信心である。
  

一乗大智願海

 佛法は、大海のごときものである。入れば入るほど深く、漕ぎ出ずれば出ずるほど広い。
  如来の一乗大智願海がこれだ。本願海は如来の「まこと」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

2025年2月15日土曜日

凡夫

 真宗において大切なことは、自分が凡夫でありながら「凡夫」ということが分からぬ。凡夫というものは、

 「そらごと、たわごと、まことあることなし」(歎異抄)

 「妄念の外に心はなきなり」(横川法語)

 「ともに是れ凡夫のみ」(十七条憲法)

と。自分が凡夫でありながら、凡夫たることが分からぬから「自力のはからい」を出すのである。凡夫のすがたを、徹底的に解明してくださったのが「機の深信」である。

 「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」

と。こういう凡夫でありながら、「早く信心がいただきたい」などと思うのは、あまりに虫が良すぎるというものである。「お浄土へ参りたい」も結構であるが、脚下の地獄の猛火をどうするのか。落ちることを知らぬ者は助からぬ。「機の深信」が無ければ「法の深信」も無し。
 信心は「知識」や「思い」ではない。佛力である、本願力である。凡夫のくせに、凡夫たることが分からぬような者は助からぬ。お浄土参りには、地獄行きの稽古をする方が近道である。悪は皆罪である。煩悩は皆罪である。妄念は皆罪である。

  「濁世の起悪造罪は何ぞ暴風駛雨に異ならん」(道綽禅師)

と。釈迦如来は、衆生が雨風動乱のごとくあまりに激しく罪を造るので、「驚いて火宅の門に入る」と、此の世に出現あらせられたのである。

 毎日毎日魚鳥や肉類を食べて少しも罪と思わぬほど人間は堕落してしまった。生きんとするための慾は皆罪である。自分の罪を忘れて「信心」という牡丹餅を取ろうとしておる。佛教徒も堕落したものだ。これが末世である。罪の自覚を百点とし、本願力を百点と仰ぎ切ったのを信心という。
 佛を忘れ、凡夫を忘れ、罪の自覚の無い者は、助からぬ。「無常」と「因果」を知らぬ者は往生できない。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

No.150