2025年6月15日日曜日

和讃と歎異抄の味わい⑼

 六、称名念佛をはげむ人

 滋賀県にある一人のお坊さんがおられる。なかなか立派な、まじめな御僧である。そのお方は、第十八願の純粋他力の信心を長い間求められたが、どうしても「佛智即行」とか「尽十方無碍光如来一法身(いっぽっしん)の独立」とか「本願力一つ」とか、また法然上人のお歌のように、

 「ききえては 野中に立てる 竿なれや かげさわらぬを 他力ぞといふ」

といった白木の念佛、自力の雑わらぬ念佛、南無阿弥陀佛そのままの念佛のこころ、すなわち誓願不思議の大悲心が、美しくいただくことができなかったということである。そこでそのお坊さんは、

「自分はどうしても第十八願の信心がいただけぬ。ゆえに真実報土へは参られぬ。自分は化土往生でも結構である。念佛すれば往生は間違いないから、云々」

といって、神妙に毎日お念佛を、ご自身も励み、また門徒の人たちにも「お前たちも念佛せよ」と勧めておられるということである。
 もとより人の噂であり、そう言われる坊さん自身も、いつの頃か「おしへざれども自然に真如の門に転入」しておられることであろうが、噂だけで判断すると、教化の一方便かもしれないがどうも親鸞聖人の化風とはちがう。やはり「ただ念佛して」の本当のおこころを人に伝えるべきではなかろうか。

稲垣瑞劔師『法雷』第93号(1984年9月発行)

2025年6月10日火曜日

和讃と歎異抄の味わい⑻

 五、ただ念佛して

 『歎異抄』を独訳された池山栄吉先生は、非常に信仰の篤い母に育てられた。先生がまだ青年の頃のある日、母君は池山先生に向かい、

 「お前がどうしても信心が得られなかったら、まあ、それでもいいわ、わたしが先にお浄土へ参り、還相回向で再びこの世に出てきて、どの人よりも先にお前を済度してあげるから」

と申されたということである。このような母に育てられたものだから、池山先生は若い時から熱心に信仰を求められた。でも他力の純粋信仰はなかなかむつかしいもので、先生は非常に苦労せられた。それでもどうしても信心をいただくことができなかった。ある日、ふと『歎異抄』にある、

 「ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし」

という句に眼をつけられた。それからというものは、一途に、ただ念佛して怠りなかった。ところが、

  「ただ念佛して」

の中味は、不可思議の本願力であり、不可思議功徳の南無阿弥陀佛であるから、いつの間にやら、不思議に大信心に住し、往生の一段においては今一定(いちじょう)の思いになられた。これ全く、如来大悲の誓願力の然らしむるところである。聖人は『和讃』に第二十願のこころを、

 「定散自力の称名は   果遂のちかひ(二十願)に帰してこそ
  おしへざれども自然に 真如の門(十八願)に転入する」

と仰せられた。池山先生が、ただ念佛して、第十八願の「本願力一つ」「南無阿弥陀佛一つ」という美しい純粋他力の信仰に入られたのも、法徳自然の妙益(ほっとくじねんのみょうやく)である。聖人が、聖道門より十九願へ、十九願より二十願へ、二十願より第十八願へと転入されたのも、是れ全く法徳自然の妙益である。仰ぐべく信ずべきである。

 『歎異抄』の「ただ念佛して」のこころは、もとより定散自力の称名を勧められたものではない。念佛往生の極致を申されたのであって、ただ是れ誓願不思議を信じ、南無阿弥陀佛の威神功徳不可思議力に腹がふくれ、法然上人のおことばに信順された聖人の大信海をのべられたものである。

稲垣瑞劔師『法雷』第93号(1984年9月発行)

2025年4月15日火曜日

和讃と歎異抄の味わい⑺

 禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある。出来上がった禅僧は決してお経を粗末にしない。
 かつて、天龍寺の管長 峨山和尚に十五年間ついておられた但馬第一の碩学 福山東山という禅師がおられた。ある日、私が禅師を但馬の禅室に訪問したとき、禅師は私に向かって、

  「この頃はお陰様で、どんなお経を読んでも、なるほどゝゞとうなづけるようになった」

と申され、「若不生者 不取正覚」で三時間快談したことがあった。

 佛法は、お経や祖師聖人の聖教を敬い尊ぶところに信心はおこる。佛語を措いて信心の確立はない。また、一句の法門を徹底的に、何十回何百回となくいただき、明け暮れ、念頭から離さず、何十年とそれを憶い念いするところに、大信心の暁に出ることができる。
 『歎異抄』で申すならば、

  「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて往生をばとぐるなり」

  「ただ念佛して弥陀に助けられまゐらすべし」

  「念佛は行者のために非行非善なり」

  「念佛者は無碍の一道なり」

  「念佛には無義をもて義とす、不可称不可説不可思議のゆへに」

などの句である。どの句でも、心の底からうなづかれるまで聞き、学び、究め、憶うことが大切である。やりおおせたならば、元の木阿弥、阿弥陀如来は前にばかりおられないで、心の底へ回って、私のすべての思いを無益にしてくださる。それも自身の往生とにらみ合わせて深く味わうべきである。
 死を念い、自身の往生を思わずしてお聖教を読み、お聖教を講釈したところで、それは上辺のかざりで、何の役にも立たぬ。ある意味において、お聖教をもてあそぶ人である。
 これに反して、死と組み打ちしてお聖教をいただく人は、眼光紙背に徹するものがある。

  「『末代無智』と『聖人一流』の御文を百遍いただいてみよ、そしたら信が得られる」

といった妙好人がある。当節は、どの宗派の人も、僧俗共に死と組み打ちしておる人が少ないように見受けられる。悲しいことだ。

稲垣瑞劔師『法雷』第92号(1984年8月発行)

2025年4月10日木曜日

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして

 「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。
 ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛に力こぶを入れ、念佛を己が積む善根と思い、真実報土の往生を遂げない人もあろう。
 また、人まねばかりの念佛を行じて往生を仕損ずる人もあろう。また「念佛せよ」とあるからといって、念佛して如来の本願に自分の方から添おうと自力心を運ぶ人もあろう。また、何のことやら分からぬ輩もあるであろう。
 「ただ念佛して」と聞いて、念佛を称えて参ろう、と自力心を運ぶ人は、ただ表面の文字だけを読んで、本願のこころをいただき得ない人である。「語中に語無し」とは、その種の人を諭す言葉である。念佛を正定業と思いはからうすら、凡夫自力のくわだてである。

 お聖教の文字は、本願力を信じた人には、字字ことごとく、法身・般若・解脱の光明とも見られ、また親鸞聖人の法身とも見られ、また如来様とも拝みたてまつられるであろう。かかる場合には、その人は、文字を読んで文字を離れている。離れているが、文字をいただいている。
 お聖教の文字を活かすものは信心である。これを殺すものは疑心自力である。ただただ恭敬の心をもっていただくべきである。たとい一句の法門でも、これ以外に自分の助かる道がないと思えば、地獄で佛に逢うた思いをもって深く味わい、篤く貴ぶことができる。
 法霖師は『日渓学則』に、離るるは則するなり、則するは離るるなり」と申された。これが円解証入(真実の信心)の人である。

稲垣瑞劔師「法雷」第92号(1984年8月発行)

No.153