光瑞寺(浄土真宗本願寺派)
稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
2025年10月2日木曜日
2025年9月2日火曜日
2025年8月1日金曜日
2025年7月25日金曜日
大海を仰ぐ
佛法を離れている
人生と佛教、社会と佛教といったことを、当節はやかましく論じたてるのであるが、その論ずる人が「信」もなく「涅槃」を目標としておらぬから、話は根本的に佛教を離れている。
佛教が何の役に立つか
佛法を聞いて、それが人生の何の役に立つかという人が多い。佛法が無かったら、心が乱れ、悪いことをして命までも短くする。如来の護りをよろこび、日々心をしずかに仕事に勤しむことができるのは、佛法のおかげである。今日のいのちは、佛より賜ったものである。これほど大きな利益はない。世の中の人は、水に入らずして水泳を論じておるようなものである。
煩悩にも恩がある
逆境も苦しみも、考えようによっては、それがあるから、私が今日まで命をつないでおる。意思に対して反抗するものがなかったら苦しみはない。苦のなきところ楽もない。死骸同然の生活であろう。そうでなかったら、「我執」からいろいろ悪い事ばかりするであろう。煩悩もあり、苦しみもあるから「涅槃」に到ることができるのである。煩悩にも恩がある。
如来の家
「三界に家なし」とは私のことである。極楽に参らせていただいたら直ぐに本願力に乗じて衆生済度に十方に身を現じて、如来のお手伝いをさせていただく。それが如来の家というものである。
今しばらくの辛抱
佛法の大海には、いろいろ深いむずかしい真理があるが、今しばらくの辛抱じゃ。往生すれば、直ぐに佛眼をいただくから何もかも手に取るように分かるであろう。凡夫の皮を被っておる間は、真如も実相も、天上の月である。
天地は一枚
佛法は無我である。佛に成れば、我執我愛なき清浄真実の活動がある。我執なき天地は一枚である。柳は緑、花は紅である。
迷いの根本
神が天地万物を造ったということを信じておるものが多い。「何のために造ったか」と問う人が少ない。それに答え得るものはない。
もとより天地創造説は、人間の妄想から出た説である。人間の迷いの根本は、こういうところにある。
稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)
2025年7月20日日曜日
相場を知らぬ
願力回向の信行
一如法界の真理は、凡夫には分からぬ。ただただ不思議であるというより外はない。阿弥陀如来は、真如を観照して真如の功徳を我らに得せしめたもうのである。本願力回向の大信心と大行とが、それである。
凡夫の実態
人間は、罪も深いが第一に散乱放逸である。無慚無愧である。とかく凡夫は、頭の中ではからう。佛智の不思議をはからう。「はからい」が往生の邪魔をするのである。
凡夫の相場
凡夫は、自分が凡夫でありながら、凡夫の相場がなかなか極まらぬ。極まらぬものだから、佛のありがたさも分からぬ。凡夫の相場は、散乱放逸と無慚無愧である。
おれにまかせよ
如来様は、凡夫がいろいろとはからいをやっておるのをあわれに思し召して、「俺にまかせよ。かならず無上佛に仕立ててやるぞ」と仰せられる。
無碍の佛智
迷うにも法がある。悟るにも法がある。凡夫の世界には凡夫の法がある。如来の世界には本願力の法がある。如来は本願力で助けたもうのである。とかく凡夫は、浅知恵で無碍の佛智を疑うから佛には成れぬ。
涅槃と成佛の教え
「涅槃」を指し示した宗教は、佛教より他にはない。成佛することができると教える宗教も仏教以外にはない。「涅槃」を説き、それに至る大道を細々と説いたところに佛教の勝れたところがある。
稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)
2025年7月15日火曜日
他力には無理がない
願力成就の報土
人間の一切の生活、一切の思い、一切の行いは、相対の見から来る。相対の見を持った凡夫が、往生の因を自分の胸の内に見出だそうとしても、それは天上の月をつかむようなものである。「願力成就の報土」に往生するには、ただ十八願の「本願力のよびごえ」に引かれて参るよりほかに道はない。
純粋の佛因
「はからい」は、凡夫相対の見方であり、考えである。「はからい」の生活の中に、ただ本願力の「よびごえ」は、はからいでない。純粋の佛因なのである。衆生は、「よびごえ」を聞き、信心歓喜、乃至一念して、無量光明土に往生するのである。
如来のまこと
「よびごえ」は、如来の本願力である。「よびごえ」は、南無阿弥陀佛である。如来の「まこと」は、「よびごえ」である。如来の「まこと」は、功徳無尽である。それは「如来の智慧海」であり、「回向利益他の真実心」である。無明の長夜を照らすものは、如来の「まこと」である。
むねせまり やるせなきとき ただひとり
まことの慈悲の みおや たのもし
おもちゃの鉄砲
露命は今宵も知れぬ。ぐずぐずしておれぬ。生死の苦海は浪が荒い。自分の「はからい」は、子供のおもちゃの鉄砲のようなものである。おもちゃでは、罪業深重・散乱放逸の軍艦は打ち沈めることはできぬ。又おもちゃの車に乗って「涅槃」の覚城へ到ることはできぬ。
無体験の体験
禅にしても、他の教えにしても、「悟り」や「信心」は、文字言句ではない。馬を水際まで引っ張っていくことはできるが、水の味は飲んだ馬だけが知っておる。信心の味も、人々各々の体験である。自力の体験でないから無体験の体験である。
願力自然
自然というは、願力自然である。如来の方から言えば、少しも無理がない。凡夫は「はからい」をやって願力自然の邪魔をしておる。それで往生を仕損ずる。
ほんまに「ただ」
願力自然とは、佛智不思議を内容とした、如来の「よびごえ」であり、誓願力である。そのおこころがいただけると、「ほんまに『ただ』であった」「ほんまに不思議だなあ」が顕れてくださる。それが願力自然というものである。
稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
2025年7月10日木曜日
親に連れられてゆく
まことが大道
如来の「まこと」一つが、涅槃に到る大道である。如来のまことの門が、私一人のために開かれてあるのに、何をくよくよ門の外で泣いているのか。それ「南無阿弥陀佛」と親様が迎えに来られている。
すうと透ればよい
門はいつでも開いておるけれども、自分の方でなんとかして開けようとするところに、門は開いたまま閉まってしまう。開いておる門はすうと透ればそれでよい。私共はよう透らぬから、如来様が手を取って、連れ込んでくださる。
如来の功徳力
自力修行によって涅槃に到る自力の道と、涅槃に到った如来の功徳力を受けて佛に成る他力の道とは、振り合いがちがう。弥陀の本願を説くために、お釈迦様はお出世あそばされたのである。
日は暮れてしまう
心の中の佛を見付けることは、凡夫のできることではない。
「心性もとより浄けれど この世はまことの人ぞなき」
というのが実際である。影法師を追い求めている間に、日は暮れてしまう。凡夫の心をいくら磨いても、鏡にはならぬ。瓦のまま鏡にしていただく法がある。
無明も佛性
佛になったら無明も佛性であるが、凡夫が今日それを言うて悟ったような気になっていては、味噌もくそも同じになってしまう。
第一の関所
浄土真宗の行者の第一の関所は「はからい」である。最後の関所も「はからい」である。人間は、「はからい」がどんなものやら知らずして、はかろうておる。
第十八願のよびごえ
「はからい」のすたらぬのは、佛樣が信ぜられぬからである。佛樣は、無限の大慈悲力と大智慧力と、大誓願力の結晶である。佛法とは、「第十八願のよびごえ」よりほかの何ものでもない。往生せしむる力は唯だ是れ一つと、とくと合点するがよい。「よびごえ」があればこそ「往生一定、おんたすけ治定」である。わかってからでない。願力の不思議で助かるのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
登録:
コメント (Atom)
-
佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
-
さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る...
-
露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。 稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)