2020年3月25日水曜日

本願名号ただ一つ

 人間は、善人もあり悪人もあり、賢者もあり愚者もあるが、佛と比較したら、すべての人は一様に、極悪最下の泥凡夫である。
 すなわち「機」(衆生の性質)が一つであるから、これを救う「法」は一つである。これを「一機一法」という。かかる宗教を「普遍的宗教」という。
 各国の宗教は、個人的に信じ、個人的に祈り、個人的に救われる。神もまた個人的に賞罰を加えるから、これらの宗教を「個人的宗教」という。

ー 稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)

2020年3月19日木曜日

信心は 法 そのままの機

 「滴水凍氷間髪を容れず」とは、禅語(統大智の碧眼集種電鈔の序)であるが、取って以て真宗安心を語るのに適当な言葉である。ぽつぽつ滴る水が、滴っておるかと思うと、寒気のために未だ地に落ちぬうちに氷となる。水と氷との間に髪をも容れぬことをいうたものである。
 真宗の安心も丁度そのように、大悲の願心、すなわち本願力のよびごえが、久遠の昔から私に響きづめである。それは滴水のようなものである。そのよびごえの滴水が、これまた本願力の不思議で、私の胸の底に到り届くと、信心の氷となる。

 水と氷との間に、何ものをも差し挟まぬ、水のままが氷となる。それはよびごえの水(法)そのままが氷(機、金剛の信心)となる。よびごえの外に信心あることなし。
 よびごえを私が聞く、私が信ずる、と「私」が入ると、それは自力のはからいを混えたことになる。
 よびごえは、不可思議の佛智、大悲の本願力なるが故に、よんで下さることが忝いのである。

 「忝い」と思う心は、弥陀たのむ帰命の一心であるが、自分の方から持ち出した心でなくて、唯だ是れ、よびごえの大悲心そのものである。そこのところを
 「帰命(機)は本願招喚の勅命なり」
と仰せられたのである。この場合は機が法である。故に信心とは、法そのままの機である。

 一法 南無阿弥陀佛のよびごえのうちに、機と法とが語られる。かかる不思議なおよびごえ、かかる不思議の信心は、他の宗教に絶対にないことであるから、自力のはからいの習慣のついておる人は、なかなかこの味わいを味わうことができない。

 信心は 本願力の大づなに 引かれ引かれて 参る極楽

 弥陀たのむ こころいかにと 人問はヾ 不思議不思議の 親のよびごえ

ー 稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)

2020年3月3日火曜日

真如広大にしてその辺を測ることあたわず

 天地万物ことごとく不思議であるが、ここに悪業煩悩を造って苦しんでおる衆生が、現に此処に在る。これを救いたもう佛菩薩も居られる。釈迦如来は佛である。佛を否定することは出来ない。

 歴史的に言えば、佛教は釈迦如来の教説である。超歴史的に言えば、諸佛如来が悟られた絶対の大真理が佛教の根源である。
 浄土真宗の根源もまた、絶対の大真理たる真如実相より生まれたものである。

 真如実相は佛智の世界である。
 真宗は佛智の世界より生まれた教えなるが故に、これを果上顕現の法門という。
 真宗は「空・無我」の真理に沿うておるところの佛智から顕れた佛教である。

ー 稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...