稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
教行信証の証巻より抜粋です。「・・・実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。」
「測知することの出来ない広大さ」は、単なる大きさではなく豊潤さなのですね。報応化の佛身・菩薩身、去来現三世の佛事、聖浄漸頓種々の法門を生み出す肥沃な大地のごときものでしょうか。
教行信証の行巻には、安楽集を引用されて、「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、・・・」とあり、「真如実相第一義空」の脚注には、衆生の虚妄分別を超えた、存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のあり方。すなわちすべての存在の本性が、あらゆる差別の相を超えて絶対の一であることをいう。とありました。
タイトルの「真如広大にして・・・」の原文は玄義分の序題門にある「真如広大にして五乗もその辺を測らず、法性深高にして十聖もその際を窮むることなし」ですが、なるほど「こころもことばも及ばない絶対究極のあり方」をとらえるなどというのは因人には不可能なことと言わざるを得ません。
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佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。 佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...
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教行信証の証巻より抜粋です。
「・・・実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。」
「測知することの出来ない広大さ」は、単なる大きさではなく豊潤さなのですね。報応化の佛身・菩薩身、去来現三世の佛事、聖浄漸頓種々の法門を生み出す肥沃な大地のごときものでしょうか。
教行信証の行巻には、安楽集を引用されて、
「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、・・・」
とあり、
「真如実相第一義空」の脚注には、
衆生の虚妄分別を超えた、存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のあり方。すなわちすべての存在の本性が、あらゆる差別の相を超えて絶対の一であることをいう。
とありました。
タイトルの「真如広大にして・・・」の原文は玄義分の序題門にある「真如広大にして五乗もその辺を測らず、法性深高にして十聖もその際を窮むることなし」ですが、なるほど「こころもことばも及ばない絶対究極のあり方」をとらえるなどというのは因人には不可能なことと言わざるを得ません。
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