2020年3月3日火曜日

真如広大にしてその辺を測ることあたわず

 天地万物ことごとく不思議であるが、ここに悪業煩悩を造って苦しんでおる衆生が、現に此処に在る。これを救いたもう佛菩薩も居られる。釈迦如来は佛である。佛を否定することは出来ない。

 歴史的に言えば、佛教は釈迦如来の教説である。超歴史的に言えば、諸佛如来が悟られた絶対の大真理が佛教の根源である。
 浄土真宗の根源もまた、絶対の大真理たる真如実相より生まれたものである。

 真如実相は佛智の世界である。
 真宗は佛智の世界より生まれた教えなるが故に、これを果上顕現の法門という。
 真宗は「空・無我」の真理に沿うておるところの佛智から顕れた佛教である。

ー 稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)

4 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

教行信証の証巻より抜粋です。
「・・・実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。」

光瑞寺 さんのコメント...

「測知することの出来ない広大さ」は、単なる大きさではなく豊潤さなのですね。報応化の佛身・菩薩身、去来現三世の佛事、聖浄漸頓種々の法門を生み出す肥沃な大地のごときものでしょうか。

土見誠輝 さんのコメント...

教行信証の行巻には、安楽集を引用されて、
「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、・・・」
とあり、
「真如実相第一義空」の脚注には、
衆生の虚妄分別を超えた、存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のあり方。すなわちすべての存在の本性が、あらゆる差別の相を超えて絶対の一であることをいう。
とありました。

光瑞寺 さんのコメント...

タイトルの「真如広大にして・・・」の原文は玄義分の序題門にある「真如広大にして五乗もその辺を測らず、法性深高にして十聖もその際を窮むることなし」ですが、なるほど「こころもことばも及ばない絶対究極のあり方」をとらえるなどというのは因人には不可能なことと言わざるを得ません。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...