2020年3月19日木曜日

信心は 法 そのままの機

 「滴水凍氷間髪を容れず」とは、禅語(統大智の碧眼集種電鈔の序)であるが、取って以て真宗安心を語るのに適当な言葉である。ぽつぽつ滴る水が、滴っておるかと思うと、寒気のために未だ地に落ちぬうちに氷となる。水と氷との間に髪をも容れぬことをいうたものである。
 真宗の安心も丁度そのように、大悲の願心、すなわち本願力のよびごえが、久遠の昔から私に響きづめである。それは滴水のようなものである。そのよびごえの滴水が、これまた本願力の不思議で、私の胸の底に到り届くと、信心の氷となる。

 水と氷との間に、何ものをも差し挟まぬ、水のままが氷となる。それはよびごえの水(法)そのままが氷(機、金剛の信心)となる。よびごえの外に信心あることなし。
 よびごえを私が聞く、私が信ずる、と「私」が入ると、それは自力のはからいを混えたことになる。
 よびごえは、不可思議の佛智、大悲の本願力なるが故に、よんで下さることが忝いのである。

 「忝い」と思う心は、弥陀たのむ帰命の一心であるが、自分の方から持ち出した心でなくて、唯だ是れ、よびごえの大悲心そのものである。そこのところを
 「帰命(機)は本願招喚の勅命なり」
と仰せられたのである。この場合は機が法である。故に信心とは、法そのままの機である。

 一法 南無阿弥陀佛のよびごえのうちに、機と法とが語られる。かかる不思議なおよびごえ、かかる不思議の信心は、他の宗教に絶対にないことであるから、自力のはからいの習慣のついておる人は、なかなかこの味わいを味わうことができない。

 信心は 本願力の大づなに 引かれ引かれて 参る極楽

 弥陀たのむ こころいかにと 人問はヾ 不思議不思議の 親のよびごえ

ー 稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)

5 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

機法一体の南無阿弥陀仏
このお言葉が心に浮かびました。

光瑞寺 さんのコメント...

「帰命は本願招喚の勅命なり」
の意を承けて、瑞劔師の常に申されるには、
「信心はよびごえじゃ」
と。
 何度も繰り返し巻き返し、熱を込めて述べて下さっています。

土見誠輝 さんのコメント...

何度も繰り返し巻き返し、初事初事と聞かせて戴く。
仏法は聴聞に極まるです。有難い事です。

土見誠輝 さんのコメント...

今一度、見させていただきます。
「よびごえを私が聞く、私が信ずる、と「私」が入ると、それは自力のはからいを混えたことになる。」

まことに「よびこえを聞く、信ずる、」です。

光瑞寺 さんのコメント...

いつも「聞く」に徹して下さっています。
「聞く」に徹したところ、「よびごえひとつ」が有り難い。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...