真宗の安心も丁度そのように、大悲の願心、すなわち本願力のよびごえが、久遠の昔から私に響きづめである。それは滴水のようなものである。そのよびごえの滴水が、これまた本願力の不思議で、私の胸の底に到り届くと、信心の氷となる。
水と氷との間に、何ものをも差し挟まぬ、水のままが氷となる。それはよびごえの水(法)そのままが氷(機、金剛の信心)となる。よびごえの外に信心あることなし。
よびごえを私が聞く、私が信ずる、と「私」が入ると、それは自力のはからいを混えたことになる。
よびごえは、不可思議の佛智、大悲の本願力なるが故に、よんで下さることが忝いのである。
「忝い」と思う心は、弥陀たのむ帰命の一心であるが、自分の方から持ち出した心でなくて、唯だ是れ、よびごえの大悲心そのものである。そこのところを
「帰命(機)は本願招喚の勅命なり」
と仰せられたのである。この場合は機が法である。故に信心とは、法そのままの機である。
一法 南無阿弥陀佛のよびごえのうちに、機と法とが語られる。かかる不思議なおよびごえ、かかる不思議の信心は、他の宗教に絶対にないことであるから、自力のはからいの習慣のついておる人は、なかなかこの味わいを味わうことができない。
信心は 本願力の大づなに 引かれ引かれて 参る極楽
弥陀たのむ こころいかにと 人問はヾ 不思議不思議の 親のよびごえ
ー 稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)
5 件のコメント:
機法一体の南無阿弥陀仏
このお言葉が心に浮かびました。
「帰命は本願招喚の勅命なり」
の意を承けて、瑞劔師の常に申されるには、
「信心はよびごえじゃ」
と。
何度も繰り返し巻き返し、熱を込めて述べて下さっています。
何度も繰り返し巻き返し、初事初事と聞かせて戴く。
仏法は聴聞に極まるです。有難い事です。
今一度、見させていただきます。
「よびごえを私が聞く、私が信ずる、と「私」が入ると、それは自力のはからいを混えたことになる。」
まことに「よびこえを聞く、信ずる、」です。
いつも「聞く」に徹して下さっています。
「聞く」に徹したところ、「よびごえひとつ」が有り難い。
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