2020年8月15日土曜日

2012(平成24)年9月の行事予定

月高ければ 影深く 罪業深重 願力光る
                    (法雷カレンダー 9月の言葉)

 如来の本願力の月は、何ものにも障(さ)えられず、法界(ほっかい)の衆生を、煌々(こうこう)と、今も照らしている。
 人がもし「最高の人間性」という天を仰(あお)ぐのならば、己れの罪を抜きにしては、届かぬ。この月あってこそ、罪の影は、濃く照らされる。


  • 9日(日) 11時前~ 仏具の「おみがき」
    • いつも綺麗にして下さって有り難うございます。

  • 17日(祝)・18日(火) 1時半~4時前 「秋季彼岸会」
    • 講師;本願寺派布教使 山西 昭義 師
「お聖教は、如来の全身なるが故に、拝読しておると、読むたびごとに如来様が何かを教えて下さる。これは如来の生ける光明である。日々如来の光明に触れることが出来る身でありながら、これを捨てておるのは惜しいことである。聖教拝読の光こそ、私の痴闇冥を除いて下さる。」(稲垣瑞劔師)
お参りお待ちしております。

6 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「法界の衆生」とあり、「法界」について調べてみました。
色んな意味があるようで、難しかったです。

その中でひとつ、
「法界といふは所化の境、すなはち衆生界なり」(定善義)
とありました。

光瑞寺 さんのコメント...

色々お調べくださって有り難うございます。
「法」という言葉自体が幅広い概念で、したがって「法界」にも色んな意味があり、読みも〈ホウカイ〉〈ホッカイ〉で統一されていないようです。

基本的に、生佛を一つに見て法界を語るものだと思っていたので、「定善義」の法界身釈を初めて聞いたときは「?」でしたが、「法」を活動的に捉えるこの解釈は、実に味わい深いです。

土見誠輝 さんのコメント...

ここでの「法界の衆生を、」は、
色んな意味がある中で、私自身として、

真如の汝を、と解するのが良いのではと思いました。

土見誠輝 さんのコメント...

ありのままの生きとし生きるものすべてを、

と解するということです。

土見誠輝 さんのコメント...

そのままなりの生きとし生きるものすべてを、

ということです。

くどくなり、申し訳ございませんでした。

光瑞寺 さんのコメント...

コメントは書き直しできないのが厄介ですね。
表現は細なるところに深意が表れます。

善悪を一つに見、迷悟を一つに見、生死を一つに見る絶対の境地(真如・法性)に立てば、教える側や救われる側といった一方的な立場は消えてしまう。無上涅槃の極果です。

同時に、今度はこの無上のさとりをさとらしめんがために、さとりの理法がおのずから活動するというのも、法の一展開相です。「この一如よりかたちをあらはして・・・」(唯信鈔文意)
定善義の釈は、法の活動相として「能化の佛智境」「所化の衆生界」と説かれたものでしょう。

法というのはじっとしたものではない、佛智によって覚られ佛智をして覚らしめ、本願力となり名号となり、生きとし生けるすべてのものを覚りへと入らしむる、無限のはたらきである。

それにしても、改めて当時の文章を読むと凝った言い回しをしています。葉書一枚で字数も限られるからですが、受け取った皆さんも「?」だったでしょうね。

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...