(法雷カレンダー 9月の言葉)
如来の本願力の月は、何ものにも障(さ)えられず、法界(ほっかい)の衆生を、煌々(こうこう)と、今も照らしている。
人がもし「最高の人間性」という天を仰(あお)ぐのならば、己れの罪を抜きにしては、届かぬ。この月あってこそ、罪の影は、濃く照らされる。
- 9日(日) 11時前~ 仏具の「おみがき」
- いつも綺麗にして下さって有り難うございます。
- 17日(祝)・18日(火) 1時半~4時前 「秋季彼岸会」
- 講師;本願寺派布教使 山西 昭義 師
お参りお待ちしております。
6 件のコメント:
「法界の衆生」とあり、「法界」について調べてみました。
色んな意味があるようで、難しかったです。
その中でひとつ、
「法界といふは所化の境、すなはち衆生界なり」(定善義)
とありました。
色々お調べくださって有り難うございます。
「法」という言葉自体が幅広い概念で、したがって「法界」にも色んな意味があり、読みも〈ホウカイ〉〈ホッカイ〉で統一されていないようです。
基本的に、生佛を一つに見て法界を語るものだと思っていたので、「定善義」の法界身釈を初めて聞いたときは「?」でしたが、「法」を活動的に捉えるこの解釈は、実に味わい深いです。
ここでの「法界の衆生を、」は、
色んな意味がある中で、私自身として、
真如の汝を、と解するのが良いのではと思いました。
ありのままの生きとし生きるものすべてを、
と解するということです。
そのままなりの生きとし生きるものすべてを、
ということです。
くどくなり、申し訳ございませんでした。
コメントは書き直しできないのが厄介ですね。
表現は細なるところに深意が表れます。
善悪を一つに見、迷悟を一つに見、生死を一つに見る絶対の境地(真如・法性)に立てば、教える側や救われる側といった一方的な立場は消えてしまう。無上涅槃の極果です。
同時に、今度はこの無上のさとりをさとらしめんがために、さとりの理法がおのずから活動するというのも、法の一展開相です。「この一如よりかたちをあらはして・・・」(唯信鈔文意)
定善義の釈は、法の活動相として「能化の佛智境」「所化の衆生界」と説かれたものでしょう。
法というのはじっとしたものではない、佛智によって覚られ佛智をして覚らしめ、本願力となり名号となり、生きとし生けるすべてのものを覚りへと入らしむる、無限のはたらきである。
それにしても、改めて当時の文章を読むと凝った言い回しをしています。葉書一枚で字数も限られるからですが、受け取った皆さんも「?」だったでしょうね。
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