真宗聖教はこの聖句より出でこの聖句に収まる
「正信偈」「和讃」『御文章』乃至『教行信証』まで、この聖句から出て、この聖句に収まる。信心またこの聖句のうちに在る。如来を忘れ、勅命を忘れて信心はなく、聖句を忘れて信心はない。「難思の弘誓」と「無碍の光明」。一生涯、日々、思い出しては憶念し、憶念してはこれを吟(くちずさ)み、考え考え、この聖句のうちに含まれている無限の味いを、味わい味わい喜んでおることが信心であり、また信心をいただく秘訣である。
如来の生命、聖人の心髄、この一句に在り
御本典には巻頭に、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
とあり、文類聚鈔には巻頭に、
「夫れ無碍難思の光耀は苦を滅し楽を証す」
とある。如来の生命、聖人の心髄、この一句に在る。また衆生往生の秘鍵である。
何十年も、この聖句を研究し、味わい続けて、常に憶念して止まざれば、凡夫の知解分別を飛び越えて、「無碍の光明」に同化せられるであろう。是れ即ち南無阿弥陀佛であり、本願力であり、また実に我等の信心歓喜である。
稲垣瑞劔師「法雷」第14号(1978年2月発行)
3 件のコメント:
我等の「信心歓喜」である。とありますが、
願成就文には、「聞其名号 信心歓喜」とあり、
名号(南無阿弥陀佛)を聞くことが大事です。
と教えていただいております。
名号を聞くとは、大悲の願心を聞くことです。
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、(信巻)
「本願のいわれ」を聞くことです。
と教えていただいております。
名号を「衆生のためにお建て下さった御本願のはたらき」とお聞きするところに信心歓喜がある。
その「聞く」とは「よびごえ」である。
「一法 南無阿弥陀佛のよびごえのうちに、機と法とが語られる」(2020/03/19)
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