2021年1月31日日曜日

巻頭言(21)

 「一切衆生悉有佛性」とは、一切衆生は未来に必ず大信心を得るからである。
 如来の正覚は時空を超越して、常に現在の一念である。これを正覚の一念という。

 正覚の一念が凡夫の世界に流れて、因果の制約の中に現れると、三世十方の往生がある。
 三世の往生は各別であるが、弥陀正覚の一念の外なるものではない。

 正覚の一念常住なれば、弥陀の名願力は常住である。本願力にめざめた時を帰命の一念という。
                                                   九十三歳 瑞劔

稲垣瑞劔師「法雷」第21号(1978年9月発行)

2021年1月24日日曜日

世渡り

 人間である以上、
 「佛法第一 親には孝行 人には親切」
で世渡りすべきである。
 悪い心を持ち、徳を積まぬ者は、往生は別として、此の世が陸(ろく)でいかん。
 因果は恐ろしい。悪人は、死ぬるまで待たぬ、必ず思わざる不時災難に遭う。これは天地自然の理である。慎まなくてはならぬ。
 名号は善の本であり、德の本である。大信心は道徳の根源である。

稲垣瑞劔師「法雷」第20号(1978年8月発行)

2021年1月18日月曜日

大悲の親様

 「このまま」を徹底して、臨終の人に対する言葉は下記の通りである。
 

 大悲の親様

信心があればよし
無ければよし
そのまま来たれのお勅命
そのよびごえも
聞こえたらよし
聞こえなければよし
お前のためにお浄土をつくって 待っておるぞよ
心配するな 案ずるな
親じゃもの
すてておいてくれと云われたとて
すてておかれぬ親心
どうぞわたしに
助けさせておくれ
南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

稲垣瑞劔師「法雷」第20号(1978年8月発行)

2021年1月12日火曜日

「このまま」の味

 「このまま」ということは、本願力の救済であるから、絶対の無条件の救済のことを「このまま」という。言葉は知っておるが、「このまま」になっておる人は少ない。

 父久太郎が、神戸駅の近くに住んでいた住川のおばさんに、何十回、何百回となく、「おばさん、心配しなさるなよ、このままやで」と言って聞かせておったのであるが、そのおばさんは、いつも「はいはい」といって聞いておった。

 父が死んでから、さて「このまま」ということは、どういう意味かと考え出した。
 考えても考えても、わからん。毎日毎日、十年間「このまま」を考え抜いた。
 十年経って初めて「本願名号の不思議のこのまま」であるということが分かった。
 それほど、「このまま」の味はむつかしい。

このままと 云えどこのまま 幾千種

 「このまま」の意味が、ほんとうに味わわれたところが、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第20号(1978年8月発行)

2021年1月6日水曜日

ただ「如来様」が、「本願」が、「勅命」がありがたい

 自分が今、死にがけの大病人であるということを、深く、真剣に思うて成就文をいただくと、

 言うこともなく、

 思うこともなく、

 為すこともなく、

「信心」という言葉さえ忘れて、ただ

 如来様がありがたい、

 南無阿弥陀佛がありがたい、

 大悲の本願がありがたい、

 「そのまま助くるぞ」の勅命が

ありたがたくなる。

 これは、如来の大悲心が、自分の心に徹ったしるしである。
 如来の大悲心が徹到したほかに、信心はあり得ない。

稲垣瑞劔師「法雷」第20号(1978年8月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...