若い時、達者な時、世事に忙しくしておる時は、分かったと思っておることが分かっておらぬもので、また、自分が正しいと思っておることが正しくないものである。
安心は、井戸を掘るように深く子細に聞かねばならぬ。
いざ、死ぬるとなれば、平生ああ思っておる、こう思っておる、これでよし、あれでよし、これではいかん、あれではいかん、と積んだり崩したりしてはかろうてきた心も、はかろう気力も無くなって、先は真っ暗闇になるものである。本願力は大きいでなあ!
如来さまは水臭い他人ぼとけではない。地獄へ今落ち込まんとしておる私を見殺しにはなさらぬ、引っとらえてお浄土へ連れて行ってくださる。
「どうぞ私に助けさせておくれ」
「どうぞ私にまかせておくれ」
「どうぞそのまま直ぐ来ておくれ」
と、大悲のありったけをぶちまけて、声を絞って仰せ下さる。
「本願力」といい、「南無阿弥陀佛」といい、「よびごえ」といい、ただこれ如来の大慈悲心を衆生に感得させたいからである。
大慈悲心は生きておる。大慈悲力は不思議である。ひとたび如来さまの大悲に泣くのを、「本願力に乗ずる」とも「名号を聞く」ともいうのである。
如来さまが分からんか。「一乗大智願海回向利益他の真実心」とは如来さまの「まこと」をいうのである。如来さまは「まこと」の親様である。
世は火宅無常、身は煩悩具足、心は罪悪深重、散乱放逸、こんな浅ましい凡夫が一超にして如来地に到る。本願力の不思議を不思議と思わぬか。
本願力のうちに往生の一路を決す。凡夫の思いはお浄土参りには藁すべ一本ほどの足しにもならぬ。参れると思うて参れるお浄土ではない。「参らせねばおかぬ」の如来さまの本願力で参らせていただくのである。
「死にがけに真っ暗闇が出て来る」というのは、お浄土参りとなれば、凡夫は絶対無力で、何となく地獄の責め苦が恐ろしくなったことである。そのとき「本願力は大きいでなあ」と阿弥陀さまの声が聞こえる。平生に聞いておかねば、いざというとき間には合わぬ。
昼は太陽の光があり、夜は電灯の光があり、五欲の心の猿に追い駆けられて、あれしてこれしてと、世渡りのことに誤魔化されて、死にがけに出てくる真っ暗闇を忘れておる。実は昼間でも真っ暗闇であるのだが。
凡夫に取っては昼も真っ暗闇で、絶対に佛に成れぬ運命を持っておる。それというのも我が身が可愛いという我執があるからである。本願力という「他力」によらなければ往生成佛の道は一つも二つもあること無し。
稲垣瑞劔師「法雷」第23号(1978年11月発行)