2022年8月30日火曜日

心は答えてくれぬ

 平生達者な時には「南無阿弥陀佛で往生するのだ」「本願力で参らせていただくのである」と、おぼろげに聞いておぼろげに覚えておるのであるが、一旦大病にかかり、医者が手を放して、否でも応でも今度は娑婆のお暇乞いとなったら、平生起こらなかった「疑い」「はからい」「不安」「恐怖の念」が油然として湧き起こるものである。恐ろし、恐ろし。

 その不安とは、「本当に自分は極楽に参られるであろうか」「地獄へ落ちるのではなかろうか」という疑いの不安である。
 「自分は参れるか」「本当に参れるか」「参られんか」と真剣になって自分の心に、ひそかに問うてみるがよい。口では参られると言うてはいても、自分の心は「参られる」とも「参られぬ」とも、きっぱり返答してくれぬであろう。
 ここのところが大切じゃ。
 臨終は今じゃ。今が臨終じゃ。大病は今じゃ。今が大病にかかっている時じゃ。

 自力疑心というものは、平素は美しい顔をして影を隠しておるようであるが、さてとなった時に、むくむくと顔を出すものである。「これは」と驚きおそれても、善知識もなく、教えてくれる人もない。それで一生を棒に振ってしまう。お寺参りする人でも、大方はこの種の人ばかりである。

 この病の根源は、「自分は佛法を聞いた」「自分はもう聞こえておる」「自分は信心をいただいておる」という自惚れと憍慢と怠惰(なまくら)とが、この病気の根源である。
 このような病を退治するには、平生から

 「本願力が大きいで、ただで、このまま参らせてくださる、ありがたいことや」

と毎日毎日、口で言い、心に思い思いしておることが大切である。
 この口癖が、ついにほんまものになって真実の信心となる。
 御和讃でも御文章でも、お聖教の言葉を、毎日憶念し、口癖にしておれば尚更よろしい。

稲垣瑞劔師「法雷」第62号(1982年2月発行)

2022年8月25日木曜日

不思議にたのもしい

 知識学問は道ではない。参考書や註釈書を取り上げてしまったら何も言えぬというのは、知ったことが道であるかのごとく誤解しておる人に、往々ある話である。
 安心もその通りで、今まで聞いて覚えたことを皆捨ててしまって何が残るか。甚だ心細い感じがするであろう。そういう人は、如来様とも対面せず、本願をいただかぬ人である。
 知った智慧も、心得たと思う心も捨ててしまって、尚且つ本願力という大事実がたのもしいとなると、それこそ、まことに まことに、佛願力の御廻向のたまものである。
  


 佛法も五十年ほど本気でやると、一寸分かる。何が分かるか。
 「何にも分からぬ」ということが分かる。「わしはあかんものや」ということが分かる。
 「佛法は尊いものや」「恐ろしいものや」「ありがたいものや」ということが分かる。
 「佛と佛願力とは、不思議の中の不思議じゃ」ということが分かる。

 聞く耳持たぬのに聞き、信ずる力もないのに信じさせられ、いつの間にやら、願力の不思議に引かれ、負われて、彼の土へ往生する幸をよろこぶ身になれる。
 これは、どんな人でもなれる。うかうか聞く人はなれぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第62号(1982年2月発行)

2022年8月20日土曜日

至心回向したまへり

 自力の教えはむつかしい。他力の教えは易い、易すぎてむつかしい。
 自力の教えは、宇宙と心との首を取る教えで、取るというても取らずに取る方法で、むつかしい。
 他力の教えは、如来様のおまことを感ずる教えである。耳で聞いて、心のどん底に染みわたる教えである。
 佛様のまことが強いものじゃから、きっと染みわたる、沁み込む。
 佛様が、まことのお六字となって、血液の一滴毎に、骨の髄までも徹ってくださるのである。
 耳で聞いて、心に「あれがどうの」「これがどうの」と合点ばかりして、凡夫の心ではからう教えではないのである。
 如来の佛心の電気に感じ、その電気の力でお浄土へ参らせていただく教えである。
 それ今もかかっている、自分が知らぬ間にもかかっている。
 佛心の電気が、本願力というものや。如来様の一人ばたらきとは、このことじゃ。ゆめゆめ思い違いをして、往生の大益を仕損じてはなりません。

稲垣瑞劔師「法雷」第61号(1982年1月発行)

2022年8月15日月曜日

多くを求むること勿かれ

 「若不生者、不取正覚」を明けても暮れても、念頭から離さずに、これを念じつめておると、佛智の不思議によって、その真意が、感応道交の妙をあらわして、往生の一路がきまる。往生の自覚が得られる。往生は自覚のないぼんやりしたようなものではない。

 その自覚をどうして得るかというと、「若不生者、不取正覚」の本願力と感応道交するところに自覚を得るのである。
 この自覚は自覚というものの、自分が自力で作った自覚でない。自覚を得ようと思って得られた自覚でない。「若不生者」の本願力が、そのまま私の往生の自覚である。本願力のうちに安心するのである。本願力のうちに信心獲得するのである。本願力をぬきにして、信心もなく、また往生もない。

 若不生者という信心一たびおこれば、一生涯これを使用して何も不自由はせぬ。一を以て万事をつらぬく。これが分かれば一生涯、その光明のうちに無碍の一道が開けてくる。

 本願力の勅命のほかに信心なく、お助けはない。信一つも行一つもこちらから加えるものなし。ただ是れ「若不生者、不取正覚」である。
 二種の深信が本当に出来たら、それが往生の自覚というものである。二種の深信を元へ返せば「若不生者」の本願力一つである。

 「若不生者」と「不取正覚」の間には、間髪を容れない。「佛が衆生を救うのが本願じゃ」などと、佛と衆生との間に余裕があり、隙間があるようでは本願でない。

 佛と言えば衆生があり、衆生と言えば佛がある。私が往生すると言えば、如来の正覚があり、如来の正覚と言えば私の往生がある。機法一体、佛凡一体は本願のうちに早やちゃんと御成就である。
 さればこそ、機の受け心も払われる、聞き損ないがないような聞き方ができる。
 如来様と私の間に髪の毛一本ほども隙間が空いていたら、私は助からぬ、如来様は正覚を成じたまわぬのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第60号(1981年12月発行)

2022年8月10日水曜日

能神の神力ならくのみ

 安心は簡単に言うがよい。言葉多きは人を惑わす元である。
 聖人も蓮如上人も、極めて簡単に、しかも力強く仰せられた。
 簡単に、しかも正確に、衆生をあやまらざらしめんがために言おうとすれば、自然に月日と場所と人が異なるにつれて、たくさんの著述となったわけである。


 一語一句に無限の味がこもっておる。また無尽の味が一句に摂まっておるのが佛語であり、佛教である。
 されば多くを知ってもよし、一句を戴いておってもよし。一句一無上であり、千句千無上である。真に一句を戴いておれば、それで一生涯不自由しない。

 さて、本願力を丸出しにした一句は何であろう。人人各各、有縁の句によって生死を離れる。
 千億万偈を暗記していても後生助かる一句を見付けぬ人は、千億万偈も何の値打ちもない。「若不生者」の一句でも「心配するな」の一言でも、真に味わい、戴いている人には無上の宝である。
 法を説く人は多くのことを知っておるが、聞く人の方が遥かに如来の大悲心を深く味わい、忝くいただいておる場合が多いとしたものである。これはどうしたことか、よくよく考えうべきである。

稲垣瑞劔師「法雷」第59・60号(1981年11月・12月発行)

2022年8月5日金曜日

本願力は大きいでなあ

 佛法は言いっ放しでよい。佛語は万両の値打ちがある。千鈞の重みがある。掛け値がないから、言いっ放しでよい。
 「心配するな」と言われたら、それ以上こちらから問い返す必要がない。
 「きっと助けて下さいますか」などと佛に問うということは、佛を凡夫同様に考えておる浅はかな考えである。
 佛語と自分との間に、自分の考えを差し挟むからいかん。佛語のまま受け取ればよい。それが無我の信心である。仰信という。

 如来さまは私たちの思うているような佛ではない。我等の思いを超えて、大慈悲本願力でお助け下さるのである。文字や言葉は皆忘れてしまっても必ずお助け下さる。
 如来さまは私たちが文字や言葉を覚えているから、その褒美に助けて下さるのでない。どうにもこうにもならぬ奴であるから、可哀想に思うて本願力の南無阿弥陀佛で助けて下さるのである。文字や言葉を忘れてしまって、お助け下さる佛智の不思議を信ずべきである。

 親鸞聖人は『教行信証』化巻に
 「信楽を願力に彰し 妙果を安養に顕さむ」
と仰せられた。「わしの信心か、それはな、それ、あの本願力が手強いから」といって、いつも本願力に眼をつけて、よろこばれた。

 如来の本願ほど不可思議なものはない。「若不生者」と本願を建てて下された。その通りになるのが佛力であり、佛智の不思議である。

 佛法を習うというのは佛の大慈悲心を習うことである。
 佛は大智慧である、大慈悲である。大智、大悲のみが我等の真生命である。光明であり、無量寿である。よそをうろうろし、探し求めていては何百年経っても助かる時は来ない。

稲垣瑞劔師「法雷」第59号(1981年11月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...