2022年10月30日日曜日

ややこしいものにするな

 佛法を聞いて、ややこしいものにするな。分からんところは尋ねなされと言われても、自分の心でありながら、どこが分からんのやろか、どこを聞いたらよかろうか、などと思いはかろうて、よう尋ねもしない人ばかりのような気がする。
 安心ならぬのなら、どうして安心ならぬかを、ぶちまけてお尋ねしたらよい。人に尋ね尋ねしたものだけが、自分のものになる。
 また教えてあげる人も、文字が読めなければそれでよい、お聖教が分からなければそれでよい、ただそのこころを言ってあげたらよい。
 お聖教は安心の手本じゃによって、出来るだけ、くれぐれも拝読したらよい。
 お寺さんも、深いことはさておき、「正信偈」「御和讃」「御文章」だけは、門徒に尋ねられても間違った返答をしないだけには勉強しておかぬといかん。何も知りませんでは、世の中は通れぬ。

 僧と言わず俗と言わず、佛法が好きにならなければ、ほんものとは言えぬ。こんなにおもしろい佛法が、好きにならぬとはどうしたことか、不思議のようにも思われる。
 好きこそものの上手なれで、好きになると、いつしかその好きのところから、佛法の妙処に達する。法を聞いて飽き足りぬ心がなければ、法の不思議を聞くことはできない。
 これも因縁なら仕方がないようなものの、おのおの一大事であるから、大事には大事をかけて、ようよう聞いておくんなされ。

稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)

2022年10月25日火曜日

菩薩

 人間は自分は人間であるということを一向よろこばぬ。これがそもそも佛法が聞こえぬ原因じゃ。人間というやつは欲のかたまりで、上へ上がろう上がろうとばかり考えておる。
 ところが菩薩になると、犬になっても犬を済度する、猫になっても猫を済度する。何になっても結構じゃと言われる。
 済度のためなれば苦しみも、また楽しみじゃと言われる。三日で死んでも、また次の生に衆生済度するから短い命と思われぬ。一千八百年生きても、衆生済度の一千八百年じゃから、命が長すぎて困るということは一向にない。これが慈悲のかたまりというものや。

 慈悲が大きくなればなるほど、自分のことを思うことが少なくなる。大慈悲心で心が充ち満ちると、ほんとうの無我になる。
 無我になって大慈悲心で見た天地は、人間が欲の眼で、我利我利の眼で見た天地とは、よほど違う。佛法を聞くと、菩薩にはなれぬが、菩薩の境界を少し知ることだけはできる。

稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)

2022年10月20日木曜日

極楽

 極楽は楽しいところじゃ。苦がないから楽しい、楽がないから楽しい。楽のあるような世界なら、法性常楽といったほんまの楽しみはない。
 凡夫の楽しみは、そのままの苦じゃ。苦が初めて顔を出した時を楽しみじゃと言うておる。楽しみのない浮世に生まれ出ながら、楽しみをこの世で得ようというのであるから、そもそも迷いも甚だしいものじゃ。

 極楽は、凡夫を佛に仕立て、また苦しい娑婆に出て来て、衆生済度の役を果たさす身支度をする世界じゃ。言わば、この苦の土が芝居の舞台、極楽は楽屋じゃ。
 楽屋で如来様から大慈大悲の衣装を被せてもろうて、この世の舞台で自身教人信の役を務めるのや。私ゃいつでも苦の土で芝居をする役者である。他の仕事は付けたり、自信教人信が本役じゃ。
 この大芝居の座長は阿弥陀様じゃ、せりふは南無阿弥陀佛、あらおもしろや、おもしろや。

稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)

2022年10月15日土曜日

金剛心

 御開山が好きなものが好きになり、きらいなものがきらいになるように、だんだん御開山に似させてもらうことが出来るのは、真宗である。ようまあ、御開山様は、凡夫の我らに近く、下がって来てくだされたことじゃ。
 御開山の好きなのは、「金剛心」というお言葉と、「無碍の光明」というお言葉であった。そのほか「帰命」といったり、「一心」といったり、「本願力」といったり、皆お好きであった。
 「金剛心」というのは弥勒菩薩の位をいうのであるが、「信心の行者は横超の金剛心を究むるによって、今度の生には真に佛に成れる」というて、御開山様はおよろこびになられた。
 御開山様のおきらいなのは、邪見憍慢の人であった。きらいというよりも、一層深く、可哀想に思って、お憐れみくだされた。ご互いに深く反省すべきである。

稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)

2022年10月10日月曜日

もう一段

 佛法はもう一通り聞かぬとあかん。
 一通り聞いて、大体こんなものじゃということが分かる。その分かったのは、それはよそ事、他人行儀の聞き方であるから、自分のものになっておらぬ。
 そうこうして、聞いて聞いてしておるうちに、「こら、うっかりしてはおられぬ、無常は迅速である、生死の事は、こないにしておってはならぬ」と気が付く。
 さあ、それからじゃ。それからもう一段と、よい善知識について、飾り気のない、色つやのない、ほんまの話を聞かしてもらう。そうすると、ざくろがぱっと弾けるように、いつの間にやら、ほんまものになる。まあ本気でよう聴聞することじゃ。

 通り一遍の佛法なら本を読んで分かるが、いざ自身後生の問題を、心底解決しようと思ったら、これはどうしても、よく分かった人について、口から耳へと伝えてもらわぬとあかん。佛法は言葉でないが、言葉を通さぬと、いただけぬ。
 佛法の言葉というのは、口から出る声だけが言葉でない。眼の光り、顔の表情、手の振り方、その人の日常の行い、何から何までが言葉である。言うも言葉、言わざるも言葉、本気に聞こうという人は、よそのお方がよう聞かぬところを聞く、よう見ぬところを見て取る。そこが不思議じゃ。

稲垣瑞劔師「法雷」第64号(1982年4月発行)

2022年10月5日水曜日

はたらくままに

 「信心を得ると往生ができる」と聞くものだから、信心を得たいと思い、得ようにかかる。もうその時は、信心は何か物的存在となってしまっておる。一個の死骸同然になっておる。
 それを知らずに掴もうとし、把えようとし、獲得しようとかかる。それは影法師を踏もうとするようなもので、いつまで経っても把えられるものではない。

 信心は何も物柄ではない。ただ心のはたらきである。唯だ如来様の大慈悲の活動があるのみである。この活動が私の心を活動せしめて下さる。
 唯だ如来様の大慈大智の活動のみが私をお救い下さるのである。如来さまを「あて」にし、「力」にする心のはたらきとなって下さるのである。それを信心というのである。ゆえに信心とは、如来さまの悲智の活動であり、大悲の親の念力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第64号(1982年4月発行)

2022年10月1日土曜日

南無阿弥陀佛にて往生す

 阿弥陀如来は「帰命尽十方無碍光如来」である。「南無不可思議光如来」である。また南無阿弥陀佛であらせられる。
 無碍の光明を放って、私たちの無明煩悩の闇を晴らして下さる如来様である。

 「信心を早ういただきたい」「どうしたら信心がいただけますか」などと思い悩む前に、自分の罪業の深重なることを考えて思い悩むがよい。その罪業の闇を晴らして下さる方が阿弥陀如来であり、その力が無碍の光明である。
 無碍の光明で闇が晴らされたら、地獄へ落ちようと思っても落ちられぬでないか。正信偈に「不断煩悩得涅槃」とは、阿弥陀如来の無碍の光明があるからである。何と不思議なことでないか、有り難いことでないか。
 阿弥陀如来は、光明無量の佛であり、寿命無量の佛である。参った衆生も光明無量、寿命無量の佛にしていただける。それゆえ阿弥陀と名づけ奉るのである。何もかも不思議である。不思議不思議で参らせていただくのである。

 南無阿弥陀佛様がよびごえとなり、本願の白道となり、衆生の信心となって下さる。南無阿弥陀佛はありがたい。阿弥陀如来が南無阿弥陀佛となって、この世にお出まし下されたのである。南無阿弥陀佛は、生き如来様であり、また如来様の生の声である。
 浄土真宗は、南無阿弥陀佛のいわれを聞き開いたのが正しい御安心である。そのことを御開山様は信巻にしかと申し遺されてある。
 もし我等が、南無阿弥陀佛を聞くことが出来なかったら、我等はどうなるか。この尊い名号の声も言われも聞かずに死んでゆく者が多い末の世に、ようまあ「南無阿弥陀佛、落としはせぬぞ」とお聞かせ下されたことよ。
 南無阿弥陀佛 一たびも 聞けば往生 南無阿弥陀佛

 南無阿弥陀佛と、如来様の大慈悲心が胸に徹るなり、「ああ、ありがたや南無阿弥陀佛」と、また口にあらわれて、十方衆生を済度したもうのである。
 南無阿弥陀佛が本願力、本願力が南無阿弥陀佛である。
  南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...