人間は自分は人間であるということを一向よろこばぬ。これがそもそも佛法が聞こえぬ原因じゃ。人間というやつは欲のかたまりで、上へ上がろう上がろうとばかり考えておる。
ところが菩薩になると、犬になっても犬を済度する、猫になっても猫を済度する。何になっても結構じゃと言われる。
済度のためなれば苦しみも、また楽しみじゃと言われる。三日で死んでも、また次の生に衆生済度するから短い命と思われぬ。一千八百年生きても、衆生済度の一千八百年じゃから、命が長すぎて困るということは一向にない。これが慈悲のかたまりというものや。
慈悲が大きくなればなるほど、自分のことを思うことが少なくなる。大慈悲心で心が充ち満ちると、ほんとうの無我になる。
無我になって大慈悲心で見た天地は、人間が欲の眼で、我利我利の眼で見た天地とは、よほど違う。佛法を聞くと、菩薩にはなれぬが、菩薩の境界を少し知ることだけはできる。
稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)
2 件のコメント:
人間(人)と菩薩の十界のうちの二種について書かれています。
十界は、六凡四聖で10種類となりますが、
人間は、六凡のうちの一つで迷いの境地であり、
菩薩は、四聖のうちの一つで悟りの境地であります。
人間と菩薩とでは、迷いと悟りと全く異なる境地となります。
その全く異なる境地のありさまを聞かせていただき、その境地を願わしめられる。凡夫の心からは願生心は出てこないが、衆生貪瞋煩悩中能生清浄願往生心で、往生を願う心を恵んでくださる。「来いよ」「来いよ」と呼んで下さる。
コメントを投稿