2022年10月25日火曜日

菩薩

 人間は自分は人間であるということを一向よろこばぬ。これがそもそも佛法が聞こえぬ原因じゃ。人間というやつは欲のかたまりで、上へ上がろう上がろうとばかり考えておる。
 ところが菩薩になると、犬になっても犬を済度する、猫になっても猫を済度する。何になっても結構じゃと言われる。
 済度のためなれば苦しみも、また楽しみじゃと言われる。三日で死んでも、また次の生に衆生済度するから短い命と思われぬ。一千八百年生きても、衆生済度の一千八百年じゃから、命が長すぎて困るということは一向にない。これが慈悲のかたまりというものや。

 慈悲が大きくなればなるほど、自分のことを思うことが少なくなる。大慈悲心で心が充ち満ちると、ほんとうの無我になる。
 無我になって大慈悲心で見た天地は、人間が欲の眼で、我利我利の眼で見た天地とは、よほど違う。佛法を聞くと、菩薩にはなれぬが、菩薩の境界を少し知ることだけはできる。

稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

人間(人)と菩薩の十界のうちの二種について書かれています。

十界は、六凡四聖で10種類となりますが、
人間は、六凡のうちの一つで迷いの境地であり、
菩薩は、四聖のうちの一つで悟りの境地であります。
人間と菩薩とでは、迷いと悟りと全く異なる境地となります。

光瑞寺 さんのコメント...

その全く異なる境地のありさまを聞かせていただき、その境地を願わしめられる。凡夫の心からは願生心は出てこないが、衆生貪瞋煩悩中能生清浄願往生心で、往生を願う心を恵んでくださる。「来いよ」「来いよ」と呼んで下さる。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...