2023年12月25日月曜日

自然(じねん)のことわり

 念佛というのは、自然じねん)であり、法爾である。願力自然である。
 如来の智慧・慈悲・方便の御はからいで私どもは易々と往生することが出来るのである。願力自然のところを念佛という。忝いと思うこころを念佛という。その忝さが口に現れて南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛と称えて、「南無阿弥陀佛」をほめたたえるのを、また念佛というのである。さればこそ我等は、

 「ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」

となるのである。全く自力のはからいの無いことを自然じねん)と申すのである。佛が本願力で衆生を助けるのに、何の無理があろうか、何の出来ないことがあろうか。それが自然じねん)である。如来にはからわれて私どもは、やすやすと往生するのである。これまた自然じねん)である。

  真宗の安心も、自然じねん)までゆかぬと肩のこりが取れぬ。本願力の自然が、とくと腹に入ると生死の重荷が下りる。
 どこやらに力こぶが入ったり、何何せねばお助けにあずかれぬと思ったり、佛菩薩にお祈りしようと思う心が微塵ほどでもあったら、それは苦しい。往生についてもいつもびくびくしておらねばならぬ。
 他力とは「如来の本願力」のことである。これすなわち自然じねん)である。これ安楽の法門である。よしあしをも飛び越えて、本願力にまかしたのが、佛法をよく心得たというものである。物知りが佛法者ではない。

稲垣瑞劔師「法雷」第80号(1983年8月発行)

2023年12月20日水曜日

一句にあり

 親鸞聖人『浄土文類聚鈔』に曰く

 「夫れ無碍難思の光耀は苦を滅し楽を証す」

と。この一句は真宗の全野を掩(おお)うところのものである。八万の法蔵の眼睛であり、初転華厳より終わり涅槃に到るまで「菩提の因無量なりと雖も信心を説けばこの中に摂尽する」とは、正にこの一句の真精神をあらわしたものである。この一句を容易に看過することなかれ。

一、絶対の勅命である。その中にすべてのはからいは消滅する。久遠劫来の自力の機執はここに根本より一掃せられる。

二、安心の要諦この中にあり。機受ことごとく法体にかえして法体円成の姿はこの一句である。法体円成を全顕して機受趣入を語るは真宗の生命である。

三、この一句は法体の独立をあらわす。  法然上人曰く、

 聞きえては 野中に立てる 竿なれや かげさわらぬを 他力とぞいふ

 南無阿弥陀佛の独立は「白木の念佛」である。助をささぬのである。これを真実信心とする。

四、この一句によりて禅の眼目たる「無心」を味わうことができる。
是れを千読万読して、久しく誦し来たり誦し去るとき、「至心信楽己れを忘れて無行不成の願海に帰す」る真意を味わうことができる。そのとき凡夫の自力心は毫末もその痕跡をとどめないのである。和讃に曰く、

 「大願海のうちには   煩悩の波こそなかりけり
  弘誓の船にのりぬれば 大悲の風にまかせたり」

 「名号不思議の海水は  逆謗の屍骸もとどまらず
  衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」

と。滾々として尽きざる深旨はこの一句にあり。「若不生者 不取正覚」と誦し去り誦し来たりて、無限無尽の味を味わうのと同一味である。

五、この一句の精神は、凡夫有漏の行業をぬぐい去って、大慈悲・大智慧の円満なる相を全顕する。是れ即ち他力真宗の玄規である。

六、極楽を善導大師釈して曰く、「極楽無為涅槃界」と。『論註』に真実の証をあらわして「真実智慧 無為法身」と。
「無為の妙果」を得んとするならば、須く「無為の信心」によるべし。和讃に曰く、

 「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば
  大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり」

と。

七、現代、法を説く者の中に、機受安心を正確ならしめんがために、ややもすれば煩瑣なる論議をなして一念覚知を固執し、益々はからいを募らしむるものあり。この一句を味わわずして何ぞ機の詮索に日時を費やし、言論を徒費するや。

八、『教行信証』の美玉六篇、鍾(あつま)まってこの一句にあり、凝ってこの一句にあり。無限の味わい、無限の法門この中より流れ生ずる。是れ即ち光寿二無量の覚体、六字尊号の生命、無量光明土の人格的躍動である。

九、この一句を趙洲の「無字の公案」(佛法の極意)と見て、二十年一日のごとく旦晨に是れを味わい、寤寐に感じて忘るることなくんば、廓然として大悟する処あろう。

十、この一句を開けば龍・天の根本精神、真実の面影の彷彿として眼前に浮かび来たる。
「無碍」とは帰命尽十方無碍光如来の光明にあり、「難思」とは難度海を度する大船、難思の弘誓をあらわす。この一句は龍天二祖を高祖親鸞聖人の体現したまえる古今無比の絶妙至極の金文字であり、究竟一乗海をあらわしたものである。

 稲垣瑞劔はこの一句を頂戴し、感佩し、銘記して一生用いて足りて、毫も不足あることなし。

 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

稲垣瑞劔師「法雷」第80号(1983年8月発行)

2023年12月15日金曜日

功徳莫大なるゆえに

 念佛を称えねばならぬとか、称えなくても信心さえあればそれでよいとか、何とか彼とか言うのは、まだほんとうに如来の本願力がわかってない。
 「ああ、忝い」と、本願のみこころ、親の大悲、佛智不思議を仰いで、頭が下がったのであれば、頭が下がると同時に念佛はひとりでに口に浮かんでくださる。その念佛が本願力そのものである。それが御恩報謝になると仰せられるから、勿体ないことである。

 佛法は頭で考えて合点すればそれでよいというものではない。心に如来の大悲心が感得されなければ何にもならぬ。
 とは言うものの、佛法を聞いてみようかと思う一念でも、その功徳は莫大である。計り知ることが出来ない。まして一語でも半句でも聞いて信を起こすならば、諸天善神もよろこびまもりたもうのである。佛法は功徳の泉である。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2023年12月10日日曜日

智慧のうしほに一味なり

 善人も悪人も同様に助けようと思し召す如様様は、どんなお方であろうか。このところに深く心を止めて、よくよく思案あるべきである。
 善を欲し悪を憎むのは人間の本性でないか。道徳の法則でないか。自力修行の根本でないか。それにもかかわらず弥陀如来は、善人も悪人も同様に可愛く思し召され、一様に助けんと仰せられる。

 よくよく思案したとき、ただちに思い浮かぶのは如来の大慈悲心である。大悲心の深さ、大きさ、とてもとても我等罪悪生死の凡夫の、心も、思いも及ぶところではない。
 また如来の智慧の深さ、ひろさ、不思議さは、これまた凡夫の思議を絶しておる。その不思議さが本願力の不思議である。それゆえ我等は、

 「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
   佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず」

の和讃がかぎりなくありがたい。また聖人は仰せられた。

 「大願海のうちには   煩悩の波こそなかりけり
   弘誓の船に乗りぬれば 大悲の風にまかせたり」

とある。また和讃に曰わく、

 「尽十方無碍光の    大悲大願の海水に
   煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり」

 佛法の味わいはここにある。凡夫往生もここにある。
 信心の味は、いつ思い出しても忝い。ありがたい。つねに思い出してはよろこぶ。これを念佛と言い、憶念という。そして念佛も憶念も、称名も何もかも、そのまま本願力であり、南無阿弥陀佛である。まことに不思議なありがたいことである。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

2023年12月5日火曜日

罪に泣けるものでない

 自分の生死の苦をのがれて、その上佛に成ろうと強く志願したとき、自分の胸の暗さがわかる。底知れず暗いことが分かる。どうにもこうにもならぬ暗さであり、みにくさであり、あさましさである。それを見つめたとき罪に泣く。
 ところで、罪に泣けるものでもない。それほどのあさましさである。ここに大悲本願の光明が涙のうちに照りかがやいて下さる。そのたのもしさ、うれしさは、また格別である。別に天におどるほどのよろこびではないが、何となく生死の荷物を下ろした安心安堵の静けさである。勿体ないことだ。

稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)

No.134



 

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...