「弥陀の智願海は深広にして涯底なし」(礼讃)
と善導大師が仰せられた。
自分の業海の深広にして涯底なきことを深く自覚して、右の御文をいただくと有り難く、値打ちがある。そうでない人には蛙の面に水であろう。
佛教は知性だけに終わるべきものでない。知性に属するものであれば、科学と同様、外部から批判も受けるが、佛教は各自の自覚体験の大道であるから、外部からとやかくと批判しても当たらぬ。
衆生の業海をひるがえして、如来の智願海と一味にするはたらきは、また弥陀の智願海である、本願一乗海である。如来にこのはたらきがあるから、信一念に愚悪の凡夫が助かってゆくのである。この他に衆生済度の方法はない。
「業」の深さ広さは、とてもとても我らが想像以上のものがある。人間が一人一人地上に生まれてきた。それが「業」の然らしむるところである。業と自己の存在は同一である。その上に社会業もあれば、個人業もある。
「罪」も同様、深く広くて限りがない。自己が存在しておることが罪である。否、存在しておると思う存在観念が、すでに迷心の致すところであって、罪の源である。それ故に聖人は、
「とても地獄は一定すみかぞかし」
と仰せられたのである。
かぎりなき 大そらの智慧
かぎりなき 大うみの慈悲
われやすし
つみもさわりも あるがままにて (瑞劔)
稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)