2024年1月25日木曜日

一升瓶に二升入れる

 人間の心は一升瓶のようなものである。立派な酒が入っておるかと思ったら、悪業煩悩の泥水ばかりである。
 その一升瓶の中に、また如来様の真実心の清水が入ってくる。一升瓶の中に二升入っても瓶は壊れもせずにある。そこが不思議である。それは佛智の不思議、無碍の光明というものである。善導大師は、

 「衆生貪瞋煩悩の中に、能く清浄の願往生心を生ず」

と申された。煩悩が邪魔になるわけでなし、同居というわけでもなし。入るところがなくて入ってきて下さるのが無碍の佛智である。他力の信水である。
 こうなってくると、どこを眺めても参れそうもない私が参らせていただくことを、ただ「不思議、不思議」と、本願力を仰ぐのみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

善導大師が「二河譬」に「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」とお説きになられました。
親鸞聖人は、
衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる。
と、本願力によって生じる「如来回向の願往生心」であると教えていただいています。

光瑞寺 さんのコメント...

「間違いなくお浄土へ参らせていただける」と、発こるはずもない心が発る。
如来のご回向とお聞かせいただいておりますが、不思議なことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...