医者から死の宣告が下された。あと半年か、一年以内の命である。
今後二十年か三十年は生きられる健全な心臓は「生きよ、生きよ」と言ってくれているが、もう生きられぬ。生きていたいのだが死んで行かねばならぬ。懐かしき山川とも別れなければならぬ。春が来ても花が見られぬ。秋になっても月が見られぬ。
人と別れ、万象と別れ、最も親しい肉体とも別れて、冷たい遺骸を地上に横たえねばならぬ時が来た。今現にその時である。心の動揺は抑えきれぬ。人生は絶望と苦悶がその最後であるか、否か。この時に当たって安価な哲学も、偽宗教の教えも、あきらめ主義も何の役にも立たぬ。
健康な時には欲が出る。死ぬることを考えていない時には、家も屋敷も、名誉も金銭も、女も酒も、駆け引きも手段も、私利私欲を満足させるために必要である。朝目が覚めると、どうして生きようかと考える。無意識にも考えておる。夜は寝るまで考えておる。夢はことごとく我欲の化け物ばかりである。
そのような人間生活をしておる時は、死の風がどこに吹いているかということも念頭に留めないで、ただ馬車馬のように「五欲街道」をひた走りに走っておる。世界中のほとんどすべての宗教はこの「五欲街道」の修理道具であるまいか。
「病気が治る」という看板も、「貧乏が助かる」という宣伝も、「災厄がのがれられる」という説教も、「幸福が得られる」という教義も、所詮は人生五欲の苦しき街道を修繕して、少しばかり車の滑りのよきようにする一時的のごまかしに過ぎないのではないか。それでも「宗教だ」「世界一の宗教だ」「救われる道は俺のところだけだ」と叫んでおるが、よく考えてみれば「人生街道」「五欲道路」を修繕する道具の宣伝にしか見受けられないが、どうだろうか。死の宣告を受けて、自己の死を眼前に見詰めた者に、そんな宣伝がどれだけ効き目があるか。
宗教を説く人よ、宗教を宣伝する人よ、君たちの傍に死の宣告を受けた人がおることを忘れてはならぬ。また君たちも医者や法律によらずして、死の宣告を受けている身であることを忘れてはならぬ。
死ぬると決まった人たちに君らはどんな言葉を以て教えを説くか。どんな行いをしてみせるか。来世を説くか。教祖は佛か菩薩か、または五欲の奴隷か。経典の持ち合わせがあるか。「五欲街道」の修理道具をいくら振り回しても駄目である。
今母が 今臨終が わが子ぞと おもひて説けよ まこと つくして (瑞劔)
こう言いつつペンを走らせておる自分も、今現に一秒間の休みなく、温かい血汐は氷と混じり、ぐるぐる回転する眼玉は静止と握手し、呼吸の音も峯の松風の中に永久に消え去りつつあるのである。
死の宣告を受けた人はすでに時限爆弾に点火されたのであるが、自分は時をえらばぬ噴火山の爆発が地下で今進行中である。死は同じように必然的にやってくる。他人の死は平然と見ておられるが、自分の死は驚懼せずにはいられまい。戦慄せずにはおられまい。
世の多くの宗教よ、汝は人類に対して生の幸福を与え得るならば、何故に死の解決を与えることができないのであるか。生の幸福は五欲街道の修理ではないか。街道を五十年、乃至百年、人体という車を走らせて、果てはどこへ連れて行こうとするのであるか。
死の宣告を受けた者は五欲街道の彼方に何があるかを知りたいのだ。街道がすでに破滅してしまった彼には、道なき道が見付けたいのだ。暗黒の中に大道を望み見たいのだ。否、その大道を自分は安らかに闊歩しつつあるという大自覚を持ちたいのだ。
最早「人間街道」の話ではいかん、教訓でもいかん、哲学でもいかん、修理道具を見せつけたところで駄目である。死に赴くところの人は空腹を痛感しておるのである。文化の修理道具でも、理知増進の道具でも、幸福製造機でも、彼の空腹を満たしめることはできない。どうするのだ。彼は求めておる。彼は人生最高の食物を求めておる。真の宗教を求めておる。死と暗黒と絶望の淵に光る大道を求めておるのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)