2024年12月25日水曜日

此の世の利益きはもなし

夢の世の中、迷いの世ではあるが、夢ならざるものがただ一つある。それは佛語である。迷いにあらざるものがただ一つある。それは南無阿弥陀佛である。

『教行信証』は不思議な書物で、名利や売り心を以てはわからぬ書である。

売り心はわるい。説教は、お聖教を拝見して自分がありがたく感じたところを話せばよい。

お聖教はなるべく多く読むのがよい、聖人や如来様に対してますます尊敬の念が起こる。夜寝る前には、お聖教を読んで寝るがよい。

心を静かにして佛樣を念じておれば心は健康である。身体は無理をするとついに健康を害する。心配するのが心身の一番の毒である、これがやがて病気のもとである。長寿の秘訣は、欲を少なくし、心を静かに持ち、常に佛法をたしなんでおると、自然に長寿ができる。

佛法の上からは因果の道理をわきまえ、業報のおそろしい事を思うて身をつつしまねばならぬ。

佛法を聞けばおかげは蒙る、けれどおかげを目当てに佛法を聞くでない。

念佛を現世利益に使うのは、おかどがちがう。

苦しいことがしばしば起こってきたら因果業報はおそろしいものであると思うがよい。その因果を教えて下されたお釈迦様が、また本願真実もお説き下された。自身の往生は間違いないと思うがよい。

如来様の方では極楽より外に行き場所のないようにしてくださっている。

極楽参りと極めていただいていても、此の世はつらい苦しいものである。
  宿とれど 日暮れの雪の 寒さ哉

凡夫の心は澄み切ることはあり得ない。夜の夢では何十人でも人殺しをする。

心が濁らば濁れ、澄まば澄め、往生はただ本願力に乗ずるのみ。阿弥陀様は一文不知の尼入道の身になしてお浄土へ迎え取ると仰せられる。

どこへ行っても佛法者は少ないものだ。どんなのが佛法者かというと、つねに佛の無量力功徳を憶念しておる人が佛法者である。

念佛は出たらよし、出なければよし、よろこびが出たらよし、出なければよし、大悲の親様はいつも照らしづめ、いつも喚びづめである。

どうしたら信がいただけるかと問うことを止めよ。どうにかなって助かろうと思うておるその心がくせものである。

誓願不思議に助けられる以外に道がないと、肚が極まったのを念佛行者という。参られぬものが参られるのは、誓願の不思議である。誓願の不思議は佛智の不思議である。

如来様がありがたく思われたら、よくよくお慈悲に与っておるのである。その外のことは、理窟か偽物である。

真宗の学問は「往生は本願力によりて易中の易である」と知らせていただくだけである。

九十年、佛法を一心不乱に聞いたが、これを得たというものは一つもない。生まれたままの空手で、お浄土へ参らせていただくのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第88号(1984年4月発行)

2024年12月20日金曜日

たのもしい たのもしい如来様

自分は悪きいたずらものとは、どうしても思われぬが、助からぬやつであるとは思われる。

無常迅速 生死の問題は大きいぞ
うかうかするなよ

後生大事とふみ出してから、普通では二十年かかるとしたものである。明師に逢うて真剣になれば一座の説教で信は得られる。

信を得た人は自分が信じておることもすらも知らぬものである。信心や念佛に力こぶを入れておる人はまだまだ聴聞が足らぬ。

「これでよし」もわるいが、「これではいかん」も同じくわるい。本願力はよしあしを超えて凡夫が助かる法である。

聞いておぼえておることを取り出して、これでよしと自分免許の穴の中に、ちぢこんでいては火車来現の時がおそろしいぞ。

落ちる地獄行きということは凡夫で気の付くものではないが、たとい地獄行きが分かったからとて、お浄土へ参れるに極まったのではない。往生はただ本願力一つである。

往生は阿弥陀如来のひとりばたらきと、百千遍聞いていながら、いつの間にやらどうしたら助かるであろうかと思いなやむ心が起こるものである。迷うてはならぬ、本願力が大悲の願船である。南無阿弥陀佛が生死大海の灯炬である。

如来様には無明煩悩を滅ぼし往生成佛させてくださる無量の力があり、無量の功徳がある。それが本願力である。南無阿弥陀佛である。自分は落ちるもの、どうしても落ちる、どう思うても落ちる。御本願様があればこそ。南無阿弥陀佛のお力があればこそ。落ちるまま助かるのである。

如来様が助けてくださるのである。自分の心を以ていくら説教を聴聞しても、そらあかん。助けてくださる如来様は、それ、今の南無阿弥陀佛、お佛壇の中にござる。

如来様の前に坐るとひとりでに赤児になり、阿呆になれる。そしてたのもしい如来様がたのもしうなる。信心をいただいた、いただかぬという議論を止めて、必ず助けて下さるる如来様の佛智大悲の御本願をたのもしく思うがよい。  

稲垣瑞劔師「法雷」第88号(1984年4月発行)
  
  
  
  

2024年12月15日日曜日

南無阿弥陀佛の月かげが


「煩悩の雲きり破って 出て下さった」
「たしかな証據 それ 南無阿弥陀佛」
「『法』と云うものは 不思議なものや この私が助かるのやから不思議である」
「あゝ あの月が… 信もわすれて 月かげを」
「信心を得たも得ぬも あったもんかい」
「弥陀と私は松葉かな どこに落ちても二人づれ」

 如来様がお顔を見せてくださったら、それで事済みである。
 「南無阿弥陀佛!」あれが、如来様のお顔である。本願も、名号も、よびごえも、正覚も、すべてが如来様のお顔である。お顔を見ればたのもしい。
 私のすることは、生死を生死にまかして、佛恩報謝のお念佛を楽しむだけである。

稲垣瑞劔師「法雷」第88号(1984年4月発行)

2024年12月10日火曜日

随想録

佛眼が開ける

 一切の真理は、往生してみれば分かることである。あまり急ぐことはない。盲人が、手を引いてもろうて極楽に往生すれば、そのとき佛眼が開ける。佛知見を以て見たのがほんまである。それを「実相」という。まあ往生してからの楽しみにしておこうではないか。

願力自然

 人間の見方、考え方は、すべて「無明」と「我執」を被っておるから、最高の真理ではない。本願一実の大道は、大悲の佛智なるが故に、涅槃のみやこへ到ることができる。信心の生活は、本願の大道を歩むことである。これを「自然」という。「願力自然」である。人生もまた無理があれば病気になったり、貧血になったり、長寿はできぬ。

すかっと行かぬ

 どうもすかっと行かぬものだ。自力の蓮は折れたようでも、糸が引っ張っておる。糸というのが「はからい」である。

佛因と佛果

 佛書を読む、佛法を聞く、後に何が残るか。凡夫の思いであるか、覚えた記憶であるか、それともまた、虚仮の行、雑毒の善の足型であろう。そんなものでは、大涅槃に到ることはできない。佛因(本願力、信心)にあらずば佛果は得られない。

自力の畑に

 本願力を信受した人は、勅命に信順した人である。その人は凡夫にあらず、聖者にあらず、平々凡々である。人間生活をしながら、心はつねに本願海にあそんでおる。人生解決の鍵は此処にある。

本願海

 本願海とは、よく言うたものである。最後のよりたのみ、よりかかりは本願である。それをあらわしたものが南無阿弥陀佛である。

光寿の世界

 光寿二無量の世界は、直ちに凡夫の眼で、これを認識することはできぬ。それが南無阿弥陀佛となってわれらを喚びたもう。

自力の向上心

 佛法に「無心」「無我」「空」ということがあるが、凡夫自力の向上心、力みごころ、聞きごころを取り去ることは、底下の凡愚としては不可能である。佛の不思議力を仰ぐところ、肩の荷が下りたように「さてはさては」とあきれ果て、少しも、向上的努力を要せずして佛に成る。本願力の宗教の真面目は、此処にある。

本願力の独立

 佛教を語っても皆説明になる。説明にならぬ佛法は、本願力の独立である。ひとりばたらきである。知性に訴えて、知性を超えたところに、信心の光りがあらわれる。信心の光りは、即ち本願力の光りである。

稲垣瑞劔師「法雷」第87号(1984年3月発行)

念佛のうた㈠

私は「ただ念佛して」を拝して、そのこころを歌に詠んだ。    念佛のうた 佛法は 耳で聞いて 眼で聞いて 心で聞いて 身で聞いて 身に佛法が つくことは これ上上の 聞きかたか 「無常」を観じ 念じつめ 後生のことに おどろいて 透れぬ関所に ぶちあたり 「解脱の耳」を 振り立て...