2025年1月25日土曜日

鳥部山 煙の末が 恐ろしや

 露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。
 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。

稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)




 

2025年1月20日月曜日

和讃と歎異抄の味わい⑷

二、求めるものなし

 宇治の万福寺は、禅宗の黄檗宗のお寺である。その元祖さんは、中国の黄檗禅師というどえらい大徳であった。その方が言われた言葉に、

 「佛によりて求めず、法によりて求めず、僧によりて求めず。唯だ是の如し」

というて礼拝しておられた。禅では礼拝も「唯如是」の礼拝であってこそ、ほんまの礼拝になる。「佛様どうぞ、どうぞ」という礼拝ではない。求めることのない礼拝、これがよい。おべっかを言うたり、お追従したり、ご機嫌取りの礼拝したり、土産物持参の礼拝ならば、それこそ商売根性の礼拝である。取引根性の礼拝である。念佛でもその通り、商売念佛、取引念佛になっては、もはや佛法でない。真宗は「帰命」が礼拝である。
 お正月の神詣でを見ておると、お礼参りの人は少なくて、どうぞ商売が繁昌するように、本年も福をどっさりくださいませと、お祈りの柏手、無理注文の礼拝ばかりのように見受けられるが、これは一つ考えものだろうと思う。そこで私は一首の歌を詠んだ。

 いのるとも しるしなきこそ しるしなれ いのるこころに まことなければ

  
 黄檗禅師が、求めるところなく、祈るところなく、注文するところなく、取引するところなく、我利我欲を離れて礼拝されたことは、まことに見上げた純一無雑の大行である。礼拝の独立である。禅宗もここまで来ないと本当のものでない。瓦を磨いて鏡を作ろうとするようなことではあかん。
 念佛もその通りで、如来に対して、求める心、祈る心、注文する心、往生と交換する心、土産物持参の心、追従の心、へつらいの心、商売根性の念佛では、真宗の念佛ではない。禅家の人は、「ただ念佛して」の味を知らぬものだから、真宗念佛をとやかく下賎の教えのように思う人があるが、親鸞聖人の念佛は、黄檗禅師の「唯だ是の如し」と同じような念佛であって、「ただ念佛して」の念佛である。
  
 「ただ念佛して」の念佛は、形から言えば称名である。如来の御名を称えることである。ところが、この念佛は、無碍光如来をほめまつって、その無碍の佛智に相応し、大慈悲心に相応し、威神功徳不可思議力を仰ぎまつる念佛なれば、そのまま南無阿弥陀佛であり、如来様の「あらわれ」である。
 如来様をほめたたえる念佛は、如来様の「おすがた」であり、「みこころ」であり、また「御身」である。全く私がない。求めるこころ、祈るこころ、取引心のない念佛である。それを「ただ念佛して」という。
 故に「ただ念佛して」は、南無阿弥陀佛の独立、本願力の独立である。この「独立」が難しいのじゃ。「独立」であるから、私の往生が易いのである。
 親様と初対面して、親様の名を喚んだのが、「ただ念佛して」である。その声は、まるまる親の大悲心である。声は声であって、そのまま親の大悲心である。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

2025年1月15日水曜日

和讃と歎異抄の味わい⑶

 学者もお気の毒なものじゃ。学問すると学問くさくなる。多く知ると、知者くさくなる。分別すると、物知りくさくなる。分かったら、悧口くさくなる。人に説教ばかりしておると、説教くさくなる。坊さんくさくなる。何を見ても聞いても、説教の種にしようと種探しをやると、種物屋くさくなる。何でも佛法の上は、くさくなってはあかん。
 「味噌の味噌くさきは上味噌にあらず」というでないか。そういう私も、だいぶん味噌くさくなっておる。あさましいことである。はずかしいことじゃ。それで私は、如来様のお店の品物だけ受け売りさせてもらうことに極めておる。

 凡夫という奴は、何もできぬくせに、神様や仏様に土産物を差し上げ、その代わり病気を治してくださいとか、厄を逃れさせてくれとか、お金が儲かるようにとか、商売が繁昌するようにとか、長寿させてくれとか、無理な注文やお願いや、祈願をする悪い癖がある。まるで海老で鯛を釣ろうとしておる。そう甘(うま)くいってくれるとこちらは都合がよいが、そう甘くはゆかぬ。人間同士ならいざ知らず、神仏に対して、あんまり商売根性を出さぬことじゃ。
  
 どうしてもこうしても如来様へ土産を持参したいのならば、久遠劫来造りと造った悪業煩悩を持って、極楽行きの土産にしなされ。それなら阿弥陀様も、およろこびくださることであろう。その外の土産は、まっぴら御免と仰せられてある。
 「でも、少しなりとも善い心を、少しなりともうれしい思いを、少しなりともお浄土が恋しい思いを、少しなりともお念佛を、また何はなくとも信心を、お土産にしようと思いますが、いけませんか」
 「何を言うのだ。『阿弥陀経』には不可以少善根福徳因縁得生彼国と、あるでないか」
 人間という奴は、善人面をしておるが、一皮むいたら、腹の中は誰もかも我利我利虫がうようよしておる、「少しなりとも善い心を」などというが、自分の眼に見えるような善根なら、それは浄い善根ではない。虚仮の行、雑毒の善じゃ。善に似て、そのまま悪じゃ。何んぼ聞いたとて、うれしゅうなるものか。うれしい心を、煩悩が抑えつけて、うれしくさせてくれぬ。
 「お浄土が恋しい」、それ何を言うのか。心にもないことは言うまいぞ、後生はお浄土と肚が極まっていても、一分間でも居りたいのがこの娑婆じゃ。『歎異抄』には、

 「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。」

と仰せられ、また、

 「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。」

と仰せられてあるではないか。信を得た人は、口と心とが一致するものじゃ。
 「心がどうしても安心してくれませぬ。安心さえしてくれたら、それでよろしい。どうぞ安心させてくだされ」
 これも虫のよい注文じゃ。如来のお慈悲をよくよく聴聞せんでおって、「安心」「安心」と言いなさるな。そうせかせか言うたところで、やすやすと安心ができるものではない。
 それよりも、もっと性根を入れて聞きなされ。如来様は私の安心までも注文してござらぬ。「本願力は聞かいでもよい。安心さえお前の方で造ってきたら、それでお浄土へ参らすぞよ」と、ただの一遍でも、阿弥陀様が仰せられたことはない。『大経』様には、

 「其の名号を聞いて信心歓喜し、乃至一念せん」

と仰せられ、名号の威神功徳不可思議力が、不思議 不思議と、不思議に私の胸に徹ったならば、歓喜はひとりでに出ると仰せられた。
 「歓喜」というても、往生に苦の抜けたことを言うのである。いざ後生と踏み出してみて、生死岸頭に立ちて、少しも不安の思いがなくなったのを歓喜というのである。
 この歓喜は「無楽の大楽」じゃ。うれしいことのないうれしさじゃ。「安心も、もう要らぬわ」といった大安心じゃ。お前さんのように、安心安心と安心を欲しがらないで、「もう安心も要らぬ」と踏み出されぬか。如来様の本願は、「自分の安心に眼をつけて来いよ」でない。

 「ただ本願力で助くるぞ」

である。「ただ本願力で助くるぞ」のおよびごえであるから、法然上人は、

 「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀佛と申せば」

と仰せられたのである。親鸞聖人も、

 「ただ念佛して」

と仰せられた。「ただ念佛して」のお味わいは、「ただ如来の本願力で助くるぞよ」ということである。「ただ念佛して」の「ただ」は、こちらの方で土産を造らぬことじゃ。ただ本願力の「ただ」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

2025年1月10日金曜日

和讃と歎異抄の味わい⑵

一、第一の関所

 『歎異抄』第二章に曰く、

 「親鸞におきては、ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」

と。「ただ念佛して」が関所じゃ。この関所は、一切衆生いかなる人も通れるようになっておるのであるが、この関所を通る人が少ない。どうして通ろうかと、思案工夫するから通れぬ。ただ念佛して通れば、すうと通れる。
 「ただ念佛して」の関所は、ただ念佛して通ればよい。何でも念佛して通ろうと思うと、念佛に力こぶがいる。力こぶを入れては、自力の「我」が出る。「我」が出ては佛法にならぬ。
 本願の大道には門があるが、なかなかその門が通れぬ。これまでにその門を通った人は千万無量の数に上っておるのであるが、自分の力で眼を開き、自分の力で足を運んで通ろうとした者は、皆落第してしまった。
 本願は喚び、大道は「直ちに来たれ」と喚んでおるのであるが、その声を素直に聞く人がない。聞く人がないから、通る人がない。それでは本願も大道も泣いてござる。久遠劫来、私につきまとって最も親しい念佛が、「信じよう」「称えよう」と出かけるものだから、ますます私に疎遠なものになってしまう。
 たまたま、その声を聞いた人がある。聞くことは聞いたのであるが、「自分が聞いた」「我が聞いた」と思って、聞いたことが自慢になる、うぬぼれになる。これも感心しない。

 ところが、田舎の有難い一文不知のお婆さんがおる。その人は「聞いた」ともいわぬ、「聞かぬ」ともいわぬ。ただ「不思議の御本願で、よんでくださることが有難い」と言っておる。
 「聞いたか」「聞こえたか」と再び問い返すと、そのお婆さんは「聞いたとも申されませぬ、聞こえぬとも申されませぬ。私一人をよんでくださるのが忝うございます。」と言うておる。妙なお人じゃ。じゃが、この妙なお人には、なかなかなれぬぞよ。
 法然上人が「わしは、ただ念佛して、阿弥陀様にたすけられる。ただそれだけである。その外のことは存ぜぬのじゃ、知らぬのじゃ」と仰せられたら、親鸞聖人は「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と、よろこばれた。
  
 今日のお同行は、お説教を聞いて「ただ念佛して」の話をすると、直ぐに「それでは、私も念佛して阿弥陀様に助けてもらおう」と、早や、自分の方から往生の条件にかなおうと思い、本願に相応しようと思い、「よびごえ」を聞こうと出る。「直ちに来たれ」の「よびごえ」がかかっておるのに、今さら聞こうと出るのもおかしなことである。
  阿弥陀様があらわれてくださって、「待っておるぞよ」と仰せくださったものを、こちらの方で「それでは念佛して助けてもらおう」と出るのは、ちょうど、「お浄土へ参るには、何も土産を持たずに参るわけにはゆかぬ、念佛のお土産でも持って参りましょう」と思って、自分で手作りのお念佛を下げて、浄土参りの支度をするようなものである。

 阿弥陀様は、

 「手作りのお念佛のだんごは嫌いじゃ、わしは食わぬ」

と仰せられる。

 「それじゃというて何も手土産を持たずに参るというのは、何やら義理がすまぬような気がする。土産を持たしてくださったら、私も心に頼りができて、気が楽になるのに」

などと思う人ばかり。それ故、お浄土は、

 「往き易くして人なし」

である。

 阿弥陀様に義理立てすることが何があるか。そのように土産を持って行きたかったら、六波羅蜜の行なり、八正道の行なり、諸善万行のぼた餅なり、なんぞ土産らしいものを持って行くがよかろう。そんなら阿弥陀様は、哀しみながら上品上生のお浄土の桟敷に上げてくださるであろう。
 その土産がこちらの方でできぬということを、久遠の昔に見抜いて、見抜いた上で、「直ちに来たれ」とよんでくだされてある。その親の大悲のほども知らずに、手作りの土産を持参しようとは、それを御恩知らずというものである。

 「ただ念佛して」とは、

 「お浄土参りの土産までも、如来の方で、万善円備の嘉号は悪を転じて徳を成す正智と、ちゃんと作っておいたから、お前は空手で参ってこい、早く来い、待っておるぞよ」

と仰せくださる大悲の御声が「ただ念佛して」の味わいである。
 その大悲の親心が「真心徹到」と私のむねに到りとどいたとき、不思議に、私の口から南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と、お念佛があらわれてくださる。それが「ただ念佛して」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第88号(1984年4月発行)

2025年1月5日日曜日

和讃と歎異抄の味わい ⑴

 さきに『教行信証と歎異抄の味わい』と題して拙著を公にした。『教行信証』は堂々たる立教開宗、乾坤独歩の大著作である。そこに出ておられる親鸞聖人は、正装して真佛弟子のマークを胸に装い、釈尊に代わる正師として高台に立ち、千億万の群衆に対し、無限の時間にわたって、本願一乗絶対不二の真教を獅子吼しておられる姿が想像される。

 これに反して『歎異抄』は、威風凜々、光顔巍々たる聖人でなくて、どちらかといえば、我が家に帰ってゆったりと坐って、静かに、情を難思の法海に流しておられるような聖人がうかがわれる。それはまことに、やさしく、なつかしい姿である。それだけ聖人を、我ら愚悪の凡夫の間近に拝することができるのである。

 しかればすなわち、涯底なき如来の一乗大智願海と、浄土真宗の雄渾自然の大法門を窺わんと欲するものは、須く『教行信証』を拝読すべく、速やかに生死を離れんと欲するものは『歎異抄』を味読して、誓願不思議に徹底せられることが望ましい。

 ここに見落としてならぬものは『和讃』である。
 これは「小教行信証」とでもいうべき無上の宝典であって、一般的立場から見て、私はこれほどよい書物を他に見ないのである。一にも『和讃』二にも『和讃』だと思っておる。私も七十年あまり拝見しておるが、如来の大悲心が一字一字ににじみ出ておる。僧俗を問わず、『和讃』に全精力を傾けて、一生涯味わわれたならば、如来選択の願心にふれ、大聖世尊の慈訓に接し、金剛心の樹立に於いて、遺憾なかろうと思う。
 『和讃』は聖人の大信海の詩的発露であるから、深くしてしかも味わいやすく、味わって人生の苦悩を忘れる。ここに聖人の威容顕曜たる姿にも、また浴衣掛けのお姿にも、同時に接し得られるであろう。

 前の拙著は『教行信証』にすわって『歎異抄』を窺ったのであったが、今般その姉妹篇として、特に『和讃』にすわって、『歎異抄』の最も難所であり、また易々たる大道でもある「ただ念佛して」云々の聖句を共に味わいたいと思う。まことに汲めども尽きぬ無蓋の大悲心と、無碍の佛智とが、この一句に収まっていることを感ずる。

 本書は平易を主として、わずかにその九牛の一を味わったに過ぎない。仰ぎ希わくは、百千巻の書を読むよりも『和讃』と『歎異抄』とを精読していただきたい。
 私のごとき、愚痴暗鈍のうろうろ者は、ただ恩師 桂利劔先生と、慈悲深き父母を通して、佛語の中にのみ安らがせていただいているのである。いずれの日にか、佛祖の大恩に報い奉ることができるよう。一言述べて序と為す。

稲垣瑞劔師「法雷」第88号(1984年4月発行)

念佛のうた㈠

私は「ただ念佛して」を拝して、そのこころを歌に詠んだ。    念佛のうた 佛法は 耳で聞いて 眼で聞いて 心で聞いて 身で聞いて 身に佛法が つくことは これ上上の 聞きかたか 「無常」を観じ 念じつめ 後生のことに おどろいて 透れぬ関所に ぶちあたり 「解脱の耳」を 振り立て...