極楽荘厳は、そのまま現土に現れて『大経』となり、『教行信証』となり、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」の聖句となって現れて下さった。聖句に遇うのは、如来様に遇うたと同じである。聖句に徹するところ、即ち信心歓喜である。
一句をおろそかにする者は、千万言もおろそかにする人である。一破一切破、一断一切断である。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
この一句で腹のふくれぬはずはない。生死の雲霧の晴れぬはずはない。
「信心」を品物のように思い、「信心」を影法師のように思って、追い駆け追い駆けしておることを止めて、三十年一日の如く、この聖句に参ずるがよい。佛語に虚妄なし。聖人なんぞ衆生を誤りたもうことあらんや。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
の一句は、広大にして法界に周遍し、長遠にして未来際を尽くす。これ即ち佛勅であり、佛語である。佛教この中に在り、佛願この中に在る。これぞ往生極楽の要路である。
「無碍」という言葉を聞けば、直に「帰命尽十方無碍光如来」を憶念させられる。
「無碍光如来」は吾等のための「真実功徳相」である。これ即ち南無阿弥陀佛である。
天親菩薩も、曇鸞大師も、高祖聖人も、無碍光佛に帰命せられた。往生極楽の道、この外にあることなし。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
噫、なんと、うれしい、なつかしい聖句であることよ。
稲垣瑞劔師「法雷」第14号(1978年2月発行)