2019年12月5日木曜日

ただ仰がれる

 自分が死んでゆくことは、天地が一時に滅するほどの大きな出来事である。
 今臨終となれば何がある。絶対暗黒、絶対孤独、絶対無力、絶対恐怖の外に何もあるまい。是れを思え、之を念え。無常の風は時をえらばぬ。無明長夜の闇を晴らして下さるのは、阿弥陀如来と本願名号あるのみである。
 如来さまは尊い尊い、尊い御方である。「如来さまは尊い御方やなあ!」と思われたらよし。もう言う事もなし、聞く事もなし。
ー 稲垣瑞劔師『法雷』第5号(1977年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「無明長夜の闇を晴らして下さるのは、・・・」とお聞きすると、
次の高僧和讃のお言葉を思い浮かびました。

無碍光如来の名号と かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ
[現代語訳]
無礙光如来の名号と、智慧より放たれる光明は、煩悩の長い迷いに闇を破り、真実の光によって我らの願いを満たされる。

光瑞寺 さんのコメント...

「衆生の志願」とは何を指すのだろう、と思っていました。のんきなもんです。
親の心子知らず。

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...