2021年6月23日水曜日

恩を知りて徳を報ず

 「教・行・信・証」は、親鸞聖人が考えつかれて申し出された法門かと思えば、それに違いないが、そうではなくて、この法門の由って来たる所は、阿弥陀如来の御回向である。
 「教巻」に曰く、
「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の回向有り、一には往相、二には還相なり。往相の回向に就いて、真実の教・行・信・証有り」
と。
 信心を取ろう取ろうとしておるから、つい如来の御回向と、その御恩を忘れがちである。「猟師は鹿を見て山を見ず」とはこの事である。子供は親が養ってくれたことを忘れて、自分が一人大きくなったように思う。如来の回向を忘れては勿体ない。

 神戸の光徳寺において、昭和六年に法雷会を創めた。住職 森本瑞明師が十四年間、総ての御世話をして下さった。
 瑞明師は昭和二十年に京都にて御逝去なされた。終わりに臨んで瑞明師曰く、
「恩海無量のうちに生まれ、
 恩海無量のうちに参らせていただく」
と。恩を知らぬものは禽獣に等しい。
 瑞劔の今日あるのは、父母と恩師 桂利劔先生のお陰である。また善友の御恩、大なるものがある。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし」
父母師長の恩は、山よりも高く、海よりも深し。

稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)

2021年6月16日水曜日

報ずべし謝すべし

 学者は書物を書く。何のためにどういうつもりで書くかと言えば、自己の名利のために書く。あるいは社会人類の利益のために書く。あるいは真理を真理のために書く。あるいは愚者を教誨せんがために書く。あるいは神のインスピレーションやオラクル(神託)によって書く。あるいは芸術家のごとくビジョンに刺激されて書く。あるいは高僧のごとく佛の大慈悲に燃えて書く。あるいは自己の墓石と思って書く。色々とその動機と目的と理由は異なっておる。

 親鸞聖人が『教行信証』を書かれた目的及び動機は、一宗を開こうというお考えもあったであろうが、直接には法然聖人の『選択集』の真精神を発揮しようと思うてお書きになったのである。

 この場合、御心の底に燃えていたものは佛恩報謝の念であった。「化巻」に曰く

「爰(ここ)に久しく願海に入りて、深く佛恩を知れり、至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)ふ」

と仰せられている。

 信心は佛恩報謝に出るものである。これが法界の理法であり、原則である。

 佛恩報謝とは何ぞ。謂く、妙法を弘通することである。妙法の弘通は、南無阿弥陀佛を称念することを以て第一義と為す。

 これまた〈我れ〉ではない。三誓偈に「名声十方に超えん、究竟して聞ゆる所靡くば誓いて正覚を成ぜじ」と誓われた本願力の致すところである。

 称名念佛の意味は、広大無辺であり、甚深微妙である。「行巻」に曰く、

「大行とは、無碍光如来の名(みな)を称するなり」

と。この場合の称名は、無碍光如来を讃嘆することである。

 信心は讃嘆に出る。讃嘆せられるものは名号(南無阿弥陀佛)である。「真如一実の功徳宝海」である。讃嘆に出ない念佛は、自利の念佛である。

 佛恩報謝は讃嘆することである。すなわち念佛である。信心が無ければ讃嘆はできぬ。讃嘆の念佛は、信心の表現である。信心は南無阿弥陀佛である。「我れが信ずる」「我れが称える」といったようなことではない。

稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)

2021年6月9日水曜日

因が清浄ゆえに果もまた清浄

  • 如来は絶対の智慧と大悲の親様である。凡夫は相対の動物である。絶対の智慧と絶対の慈悲のみが「清浄」である。相対の心は皆、虚仮不実である。

  • お浄土は絶対の世界である。これを「第一義諦(だいいちぎたい)(みょう)境界相(きょうがいそう)」という。雑行雑修自力のこころをはなれた、清浄の信心のみが、お浄土に生まれることができる。その信心は、如来の大悲心であり、佛智である。

  • お浄土の荘厳は、「願心荘厳(がんしんしょうごん)」といって、如来の本願力であらわれたものである。荘厳のままが佛智であり、大悲であり、南無阿弥陀佛であり、阿弥陀如来である。これを「依正不二(えしょうふに)」という。不思議じゃ、不思議じゃ。

  • お浄土の荘厳は、一々の花より三十六百千億の光明照らしてほがらかに、一々の光明の中より佛身を現じ、妙法を説きひろめ、衆生を佛道に入らしむる。広大無辺のお浄土である。

  • 浄土和讃の始めに「南無阿弥陀佛」と書いてある。その思し召しを味わうと、無限の味わいがある。知解(ちげ)分別をして知解分別を超えて、南無阿弥陀佛に融け込ませていただくのである。

  • この世の執着は離れがたい。「死にとみない、死にとみない」のうちに、お浄土へ参らせていただくのである。

  • 南無阿弥陀佛に捕らえられ、南無阿弥陀佛に手を引かれ、参る極楽、知らなんだ。

  • 物質文明が進歩すると、精神文化は衰える。真如の功徳が南無阿弥陀佛、如来の功徳が南無阿弥陀佛。その功徳力にて往生す。

  • 浮世の酒も飲まずに暮らされぬが、酔い過ぎてはいかん。「佛法中に人生あり」と心掛けて暮らすがよい。
稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)

2021年6月3日木曜日

抱(いだ)かれてある身

  • 南無阿弥陀佛 一つやで 本願力は 大きいでなあ
  • 死の関所 真っ暗闇のその中に 不思議に響く 弥陀のよびごえ このままやで
  • 夢の世の 夢はしばしの 草枕 六字のうちの 夢は楽しい
  • 夢の世は 夢とはいえど 憂き苦し 御名を称えて 今日も暮れけり
  • お助けに間違いないすがたが 南無阿弥陀佛である
  • 本願力が大きいで この世の縁が尽き次第 いやいやながら 参る極楽
  • 久遠劫来 無明煩悩がつきまとい 骨髄までも染み付いて 寸時も離れぬそのままを 南無阿弥陀佛の親様が 寸時も離れずつきそいて しかと抱きしめ引っ抱え 花の浄土へ連れたもう 本願力は大きいでなあ
  • 春しばし 咲きし櫻も 時来れば 望みを持ちて 散りてゆくなり
  • 散るとても また来ん春に 法の花 咲かすときこそ 楽しかるらん
  • いつ何時 思い出しても 親に抱かれてある身ぞと 思えばうれし この世安穏
  • 恩海無量のそのうちに 人は来たり 人は去る
稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行) 

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...