2022年7月30日土曜日

憶念の心つねにして

 佛教をやっても、行いができなければ何にもならぬと言う人がある。
 佛が分かれば、佛を憶念する。憶念不断なれば、人間が知らず識らずのうちに、身も心も、行いも、血液の一滴までもが佛法になる。
 考えて、力みかえって、理屈をつけて行動したり、物を言ったりしては、まだまだ佛法の門口である。
 身も心も佛法になれば、その時分には、全身が本願力に流され、佛智不思議に同化された時である。

 生死の問題のごときは頭で考える問題でなくて、如来さまに自由にされることが、生死を離れたのである。
 よしあしを考えて、佛力・佛願を疑っていては、生死の問題は解決できない。

稲垣瑞劔師「法雷」第59号(1981年11月発行)

2022年7月25日月曜日

人生

 人生は不思議な、妙なもので、苦しい苦しいと人は言うておる。これはほんまじゃ、無常火宅の世であるから、苦しい辛いのは当たり前。根性が悪いから、よけいに苦しむのである。
 業報を知ってみよ、十の報いが二つか三つに減って報うてきた。これは如来様のお蔭と思えば、苦の中からもよろこびが生まれてくる。

 楽を追い求めるものは苦を招き、人を苦しめるものは苦に終わる。
 楽の中に楽なく、苦の中に楽がある。
 苦も楽も、この世の中にあるものは、所詮は苦である。
 この苦しい世にいて、人と共に苦しんで、苦しみつつ、佛法を弘める、これほど楽しいことはない。これを法楽といい、妙楽という。
 こんな楽しみは、この世のものでない、極楽の楽しみの影が浮世に差したものであろう。

 生き物を殺さぬようにして、人を助けるようにすれば、長寿をする。佛様を大切にして親に孝行をすれば、運命が開けて、幸福が湧いてくる。

 み佛の おしえをふかく かしこみて
  親に孝行 これが幸福

稲垣瑞劔師「法雷」第58号(1981年10月発行)

2022年7月20日水曜日

信心

 信心はいただけるものとも言える、いただけぬものとも言える。
 凡夫として清浄真実の信心が起こらぬのがほんまじゃ。起こったら、そら不思議、願力の不思議じゃ。
 いただけぬ信心をいただいてこそ不思議がある。自分の力でいただいたのなら不思議がない。不思議でない信心は役に立たぬ。すべてはからい、自力の信心じゃ。

 自分が努力してもいただけぬ信心、努力せずにいては尚更いただけぬ信心。さて、ここのところがどう収まるか。
 ただ仰せに順う、「順」の一字あるのみである。
 「順う」のが往生の鍵じゃ、鍵を忘れては金庫は開かぬ。「順う」世界に自力はない。
 智者も愚者も、一味の安心。早う「順」の一字の味を味わっておくれ。

稲垣瑞劔師「法雷」第58号(1981年10月発行)

2022年7月15日金曜日

誓願の薬は智愚の毒を滅す

 「文字言句に囚われるな」と言えば、文字言句を聞かないようにしたり、思うまいとしたり、捨てようとしたりする。是れ、言葉を聞いて精神を得ぬ人である。佛語、すなわち如来の「ことば」を捨ててどこに佛法があるか。

 如来の「ことば」は、すなわち如来である。法であり、佛法である。佛語を如来様といただくところに、文字やことばに囚われないという意味がある。
 佛語を如来様といただくところ、すなわち如来様が、生き生きとして私に親しく迫り来たり、私を抱き取って下さるのである。
 ただ佛語、佛教、佛願をそのままにいただくべきである。

み佛のことばを そのままいただいて
つねに恭敬の 頭を垂るる
  
 「迷い」を「迷い」と知らざるを「迷い」という。まあ凡夫としては、佛語を用いざるが迷いの根源であり、また迷いの世界である。

 どれが「真実」か「迷い」かということを見分ける力は凡夫にはない。唯だ佛語を佛語のままにいただくより他に、真実はない。

 真実とは「真実の利」のことである。これすなわち南無阿弥陀佛である。凡夫の言う真実とか真理というのは、凡夫の頭で考えた真理、真実であるから、皆うそものである。如来様のみが真実である。

 息の切れるまで、地獄行きの妄念の凡夫である。
 口を開けば 皆うそじゃ。思うことすること そらごと たわごと まことあることなし。
 願力不思議は 不思議じゃ 不思議じゃ

 思想の前に、願力不思議、願力摂取の事実がある。

 法が法を見せてくれる。法が法をたのませてくれる。

稲垣瑞劔師「法雷」第58号(1981年10月発行)

2022年7月10日日曜日

我もまた

 「我もまた彼の摂取の中に在り」とは、源信和尚の御安心、親鸞聖人の正信偈の御文である。
 聞かぬ者にこの言葉が出そうなことなく、我はよく聞いた、信心取ったと天狗になっている人に、この言葉の意味は分からぬ。
 聞いて聞いたことを忘れ、信じて信じた手柄を自分の方につけぬ者にして、初めてこの一句の味が分かるのである。

 この一句はいつも生き生きとしておる。この一句のうちに信者は日暮らしをしておる。この一句が味わえぬようなことでは、どうやらあやしいものだ。
 自分に何の手柄もなく、力もなく、さとりもなく、智慧もなく、何一つした覚えもなくして「我もまた彼の摂取の中に在り」と、何とありがたいでないか。
 これは大慈悲の極、佛智不思議の極致である。

稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)

2022年7月5日火曜日

無し無しで成る

 信心を掴んでおるとか、放しておるとか、何とかかとか、御同行の中には、こまんじゃくれて言うて、人を惑わすものがある。掴むも、放すも、あったもんかい。禅宗の問答でもあるまいに、自身が地獄へ落ちるか極楽へ参るかの境目でないか。地獄の猛火の中で、稀に佛法に遇わしてもろうた今日この頃、そんなのんきなことを言うておる時ではあるまい。掴む力も無く、放す力も無く、「とても地獄は一定すみかぞかし」でないか。

 掴むのならば、佛語を確(しか)と掴め、放すのならば信心という言葉も忘れてしまえ。合点する脳味噌までも取り出して田んぼの中へ抛ってしまえ。逆謗の屍骸が掴んだり放したりする力があるか。
 髑髏 識尽きて、その骸骨に如来の本願力が、妙なことには沁み込んで、その髑髏が踊り出すほどの不思議である。
 かかる不思議がなかったならば、凡夫が佛に成れるものか。

稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...