「文字言句に囚われるな」と言えば、文字言句を聞かないようにしたり、思うまいとしたり、捨てようとしたりする。是れ、言葉を聞いて精神を得ぬ人である。佛語、すなわち如来の「ことば」を捨ててどこに佛法があるか。
如来の「ことば」は、すなわち如来である。法であり、佛法である。佛語を如来様といただくところに、文字やことばに囚われないという意味がある。
佛語を如来様といただくところ、すなわち如来様が、生き生きとして私に親しく迫り来たり、私を抱き取って下さるのである。
ただ佛語、佛教、佛願をそのままにいただくべきである。
み佛のことばを そのままいただいて
つねに恭敬の 頭を垂るる
「迷い」を「迷い」と知らざるを「迷い」という。まあ凡夫としては、佛語を用いざるが迷いの根源であり、また迷いの世界である。
どれが「真実」か「迷い」かということを見分ける力は凡夫にはない。唯だ佛語を佛語のままにいただくより他に、真実はない。
真実とは「真実の利」のことである。これすなわち南無阿弥陀佛である。凡夫の言う真実とか真理というのは、凡夫の頭で考えた真理、真実であるから、皆うそものである。如来様のみが真実である。
息の切れるまで、地獄行きの妄念の凡夫である。
口を開けば 皆うそじゃ。思うことすること そらごと たわごと まことあることなし。
願力不思議は 不思議じゃ 不思議じゃ
思想の前に、願力不思議、願力摂取の事実がある。
法が法を見せてくれる。法が法をたのませてくれる。
稲垣瑞劔師「法雷」第58号(1981年10月発行)