2023年2月10日金曜日

不思議のはたらき(三)

 世間の人は、如来の智慧をいただく、慈悲をいただく、南無阿弥陀佛をいただく、信心をいただくなどと、まるでリンゴでもいただくように思うているが、佛法のいただき振りはそんなものではない。
 佛法をいただくのは、自分も知らぬのに、そのいただき方も知らぬのに、如来大悲の大きな手で、煩悩あるまま、悪業のあるまま、私を引き掴んで、如来の大善大功徳と一つの水にして下されることである。

 如来様がこの大仕事をなされることを、智慧をいただき、慈悲をいただき、南無阿弥陀佛をいただき、信心をいただいたと申すのである。ただ如来様のお仕事だけのことである。
 如来様は、凡夫往生の大仕事を、こちらから頼まず、求めず、知らざるに、既に成就して下された。そのすがたを南無阿弥陀佛と申すのである。

 南無阿弥陀佛を信ずるというが、信じ方も知らぬのが、我等凡夫である。大悲の願船に乗るというが、その乗り方も分からぬのが愚凡の私である。そこで如来様は、
 「心配するな、乗せて必ず渡すぞよ」
とよんで下さる。この「よびごえ」が南無阿弥陀佛、その「よびごえ」が本願力である。
 本願力の「よびごえ」が、ひとりはたらいていて下さる。そのはたらきが、取りも直さず、私が南無阿弥陀佛を信じ、私が大悲の願船に乗ることである。如来様の大智大悲のはたらきの外に、私の信心もなければ、私の乗り方もない。

 如来様の悲智のはたらきは、久遠の昔からはたらきづめ、よびづめである。私一人の上にはたらき、私一人をよんで下されている。さればこそ、私は如来親様の光明のふところ住居である。

稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

如来の智慧をいただく、慈悲をいただく、南無阿弥陀佛をいただく、信心をいただく
とありますが、

そのとおり如来からさし向けて下さっているのですが、
この4つの「いただく」に、「私がいただく」と「私が」が入るとちょっとおかしくなってくる。

光瑞寺 さんのコメント...

ただただ、如来様のお仕事ですね。

「すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし」(歎異抄)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...