世間の人は、如来の智慧をいただく、慈悲をいただく、南無阿弥陀佛をいただく、信心をいただくなどと、まるでリンゴでもいただくように思うているが、佛法のいただき振りはそんなものではない。
佛法をいただくのは、自分も知らぬのに、そのいただき方も知らぬのに、如来大悲の大きな手で、煩悩あるまま、悪業のあるまま、私を引き掴んで、如来の大善大功徳と一つの水にして下されることである。
如来様がこの大仕事をなされることを、智慧をいただき、慈悲をいただき、南無阿弥陀佛をいただき、信心をいただいたと申すのである。ただ如来様のお仕事だけのことである。
如来様は、凡夫往生の大仕事を、こちらから頼まず、求めず、知らざるに、既に成就して下された。そのすがたを南無阿弥陀佛と申すのである。
南無阿弥陀佛を信ずるというが、信じ方も知らぬのが、我等凡夫である。大悲の願船に乗るというが、その乗り方も分からぬのが愚凡の私である。そこで如来様は、
「心配するな、乗せて必ず渡すぞよ」
とよんで下さる。この「よびごえ」が南無阿弥陀佛、その「よびごえ」が本願力である。
本願力の「よびごえ」が、ひとりはたらいていて下さる。そのはたらきが、取りも直さず、私が南無阿弥陀佛を信じ、私が大悲の願船に乗ることである。如来様の大智大悲のはたらきの外に、私の信心もなければ、私の乗り方もない。
如来様の悲智のはたらきは、久遠の昔からはたらきづめ、よびづめである。私一人の上にはたらき、私一人をよんで下されている。さればこそ、私は如来親様の光明のふところ住居である。
稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)
2 件のコメント:
如来の智慧をいただく、慈悲をいただく、南無阿弥陀佛をいただく、信心をいただく
とありますが、
そのとおり如来からさし向けて下さっているのですが、
この4つの「いただく」に、「私がいただく」と「私が」が入るとちょっとおかしくなってくる。
ただただ、如来様のお仕事ですね。
「すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし」(歎異抄)
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