2023年10月15日日曜日

無義をもて義となす

 日本に生まれたことはありがたい。法然上人、親鸞聖人、源信和尚様が日本人であらせられたから、一層の親しみがある。
 あのようなえらい人たちが「無義をもて義とし」て、南無阿弥陀佛の佛智に、本願力に、大悲に安(やす)ろうておられるすがたを眺めると、大丈夫、親船に乗った気分で、ほかのことは何も考えないで、ただ信じ、平に信じ、ただお言葉をそのままに信じさせていただくことができる。これが「はからい」のないというものであろう。この他は皆「はからい」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「無義をもて義とし」
とあります。

『歎異抄』第十条に、「念仏には無義をもつて義とす。」とありますが、
現代語訳は、「本願他力の念仏においては、自力のはからいがまじらないことを根本の法義とします。」
と教えていただいています。

光瑞寺 さんのコメント...

祖師方はいつも、どんな時でも、南無阿弥陀佛の佛智に頭を垂れられ、本願力の前にすわっておられたのでしょう。
その表のお姿の上では、私たちは遠く及びませんが、御安心においては同じ安らぎを恵まれるとは、いよいよ忝いことです。

和讃と歎異抄の味わい⑺

 禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある...