「生を明らめ、死を明らめ」るとはどういうことであるか。
いわく、前述のごとく、まず因果を深信して、業報の恐ろしいことを思い、無常の迅速なること、生死の問題の重要なることを深く思念して、それからのことだ。
それからどうするのか。それから十悪を慎み、十善を修し、「諸悪莫作」の金言を胸に占めて、懺悔して、坐禅することだ。坐禅したらどうなるのか。坐禅すると、妄念が静まって「佛の知見」が開ける。
釈尊は人間に「佛の知見」を開かせ、示し、悟らせ、入らしめんが為にこの世に出現せられたのである。これが「一大事因縁」というものである。
「佛の知見」に「開示悟入」したらどうなるか。「佛の知見」が開けたら、人間が「無我」になるのである。
「無我」をまた「無心」ともいう。「無我」「無心」が般若の空慧であって、それが「実相」というものである。この心境を「佛」という。
この心境から大慈悲が顕現して、説法利生するのである。この境地にいたって「生」を見、「死」を見ると、昔、凡夫地にあって「生死」を見ていたのと、見方が異なってくる。これを「生を明らめ、死を明らめ」るというのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)