2024年9月25日水曜日

生死は佛の御いのち㈢

 「生を明らめ、死を明らめ」るとはどういうことであるか。
 いわく、前述のごとく、まず因果を深信して、業報の恐ろしいことを思い、無常の迅速なること、生死の問題の重要なることを深く思念して、それからのことだ。
 それからどうするのか。それから十悪を慎み、十善を修し、「諸悪莫作」の金言を胸に占めて、懺悔して、坐禅することだ。坐禅したらどうなるのか。坐禅すると、妄念が静まって「佛の知見」が開ける。
 釈尊は人間に「佛の知見」を開かせ、示し、悟らせ、入らしめんが為にこの世に出現せられたのである。これが「一大事因縁」というものである。
 「佛の知見」に「開示悟入」したらどうなるか。「佛の知見」が開けたら、人間が「無我」になるのである。
 「無我」をまた「無心」ともいう。「無我」「無心」が般若の空慧であって、それが「実相」というものである。この心境を「佛」という。
 この心境から大慈悲が顕現して、説法利生するのである。この境地にいたって「生」を見、「死」を見ると、昔、凡夫地にあって「生死」を見ていたのと、見方が異なってくる。これを「生を明らめ、死を明らめ」るというのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

2024年9月20日金曜日

生死は佛の御いのち㈡

 人間は生まれたからには死ぬにきまっている。そして生まれることも苦しいが、死ぬことが苦しみの極であることくらいは言わなくても分かったことである。これは迷える人間としての常識である。
 常識を常識のままに任しておいたならば、悟りも解脱も必要がなく、また釈尊出現の意義もないことになる。そして人間は永久に苦海に苦しまなければならない。それもよいのか。それでいやいやながら満足し、我慢しておるか。

 「人間は死を超えて不死の生命を獲得せよ」
 「不完全なる心的状態の迷いを転じて悟りに至れ」
 「罪業の縛を切って、絶対自由の解脱境に達せよ」
と、人間理性が要請しているではないか。その理性の叫びをも踏みにじって、安閑としておられるかどうか。放逸暖衣(ほういつだんい)、できるだけ楽しく娑婆七十年を送って、末は墓場の土となったらそれでよいではないか、といった気になれるかどうか。そのような人は禅師のことばに接する資格さえもない人である。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

2024年9月15日日曜日

生死は佛の御いのち㈠

 曹洞宗の「修証義」の冠頭に、

 「生を明らめ、死を明らむるは佛家一大事の因縁なり。生死の中に佛あれば生死なし。生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし」

と。これは道元禅師の死生観である。その意は非常に深く、凡愚としてこれを味わい尽くすということは難しいことである。
 しかしながら真理はどこまでも真理である。真理を眼前に見ながらこれを捨てて、真理でないところの言句を追っていたならば、いつまでたっても生死を解決することは出来ないであろう。古語に「活句に参じて、死句に参ずることなかれ」と。
 道元禅師の右の句の如きは、実に古今に冠絶した活句である。その奥義にいたっては、これを大老師たちに譲るとして、しばらく表面の意味だけでも考えてみることにしよう。

 由来宗教というものは、これをどのように定義しようとも、人間社会に宗教が発生したのは、人間に苦悩があるからである。人間の苦悩を大聖釈迦牟尼世尊は「生・老・病・死」と断定せられた。これは釈尊の一大発見である。
 釈尊は単にこれを発見されたのみならず、この「生・老・病・死」と、これによって生ずる他の無数の人生苦より解脱する方法を、釈尊自ら実証して、これを広く民衆に説きたもうた。すなわち佛教は実証の哲学であり、解脱の実践である。ここに佛教の強みがある。
 言い換えるならば、佛教は単に真理を説くというのみでなく、真理そのものを把握し、身心にこれを実証し、実現することが佛教なのである。
 この観点から他の一切の宗教を通覧して、「宗教とはなんぞや」と問うたとき、私は「宗教とは解脱なり」と申したいのである。

 生と死とは、人間苦の最大なるもので、またすべての人間苦を代表したものである。しばらく釈尊は、未だ解脱せざる人間に同じて「生・老・病・死」は苦であると言われたのであるが、解脱した佛の眼から見て「生・老・病・死」は苦であるか楽であるか、はたまた非苦非楽の涅槃のすがたであるか。
 ものは見ようによって異なる。迷える人類にとっては、なるほど「生・老・病・死」は苦である。釈尊もお説きあそばされたとおり、「生・老・病・死」は、迷える心が生み出したところの現象であって、「迷い」が苦の原因であって、「生・老・病・死」は迷いの結果である。これを因果といい、また因果応報という。
 人間がひとたび佛語を信じ、佛教によって因果の道理を見きわめ、因縁を明らめることによって悟り、すなわち解脱に至らなければ、人間の迷いと、迷いの結果たる苦しみは、永久に存続するのである。
 故に佛道修行においては因果を深信し、業道の恐ろしいことを骨髄に徹して味わうことが修道の第一歩である。上の道元禅師の句の如きも、深信因果の鏡の前に立って味わわないと、何が何やらさっぱり分からぬことになってしまう。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

2024年9月10日火曜日

摂取不捨の親様㈡

 これでよし、これで悪いは皆自力。どうしたら参れるかと思うのは、参られぬ証拠である。
 佛法はそんなに易いものか、そうや。易中の易である。本願力で参るからである。そんなことで参られるのか、そうや。それだから、佛法力不思議、願力不思議、如来親様が不思議である。
 阿弥陀様の誓願不思議を、不思議といただく外に往生の道はない。
 こちらは何も知らず、何もせず、何ともない、あさましいものである。それだけに、如来様がお一人、はたらいてござるのである。何ともなくて参られるから、ありがたい。このままで参られるから、ありがたい。佛智不思議の底が知れぬ。阿弥陀如来の本願力の底が知れぬ。南無阿弥陀佛のお力の底が知れぬ。

  お慈悲じゃなあ。親様じゃなあ。

  ああ辛といふはあとなり 唐辛子

  勢つきて 汲み上げられし 蛙(かはづ)

  やれうれし けさもまた念々相続 み佛の
   お慈悲はありあり眼の前に お立ちあそばす如来さま
   お顔のうちに生死をはなる 我もまた彼の摂取のうちに在り
   ともに参ろう 法の友

  けさもまた 光り輝く み佛の お顔おがみて うれしなつかし

 お内佛の阿弥陀様が、四十八本の光明を放ってござる。あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる。

  この世は、夢じゃ夢じゃ。いざ光りの家郷に帰らん哉。

  いまは早や こころにかかる 雲もなし 見られ知られて 参る極楽

 朝な夕なに、南無阿弥陀佛の生き佛様が、耳から口から出入りしてくださっているのが有難い。南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
  

  夜はくらし 道もわからぬ その時に
   阿弥陀如来が手を引いて 本願力は大きいでなあ

 お念佛が称えられぬか、そうか、称えられたらよし、称えられなければよし、助けることは、きっと助けるぞ。お慈悲が大きいでなあ。
 よろこびが出んか、そうかよろこべたらよし、よろこべなければよし。助けることは必ず助けるぞ。本願力は大きいでなあ。
 地獄へ落ちそうなか、そうか、落ちるなら、いっしょに落ちようや。仰せくださるお慈悲なり。親様じゃなあ。

稲垣瑞劔師「法雷」第87号(1984年3月発行)

2024年9月5日木曜日

摂取不捨の親様

  私を離れた如来なし 如来を離れた私なし
  響流十方大正覚 二利円満の不思議哉

 こういう如来様が、阿弥陀様であり、その本願成就、願力無窮のおすがたが南無阿弥陀佛という親様である。
 佛法は易中の易。こんな易いものであったのか。恐れ入るばかりである。

 知解分別のことばを聞くな。他の人のありがたいすがたを見るな。
 妄念は凡夫の地体なり、妄念の外に別に心はなきなり。
 自分の心は刹那刹那に変化する。凡夫の心は流水に描いた絵のようなものである。
 どんな心になったら助かるのか。なってもまた変わるぞよ。どんな心持ちになりたいと思うておるか。なっても地獄へ落ちるぞよ。どんな心もいかなる心持ちも、あてにするな。凡夫というものは箸にも棒にもかからぬものである。

  親様なればこそ。
 親というものは有難いもので、どんなことをしても、憎んでくださらぬ。よう私を捨ててくださらぬ。
  親様なればこそ。
 佛法の極意も、安心の奥義も、これ一つ、あとのことは言うも行うも、妄念ばかり、自力の凡夫心である。

 南無阿弥陀佛という如来様は、私を心のうちに、身のうちに、腕の中に抱いていてくださっておる。これ以外の如来もなく、南無阿弥陀佛もない。それを『和讃』に曰く、

 「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
  佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず」

 信じように力みを入れるな、はからうな。お助けに間違いないことをいただくばかりである。助けてしもうたすがたが、南無阿弥陀佛である。それが本願力である。
 落ちるこの私。私を離れたまわぬ如来様。如来さまのお腹の中に宿った姿が南無阿弥陀佛である。このすがたの外の如来様は、どこにもござらぬ。『和讃』に曰く、

 「若不生者のちかいゆへ 信楽まことにときいたり
  一念慶喜するひとは  往生かならずさだまりぬ」

  ひるはひねもす よはよもすがら 若不生者と せまり来る

 凡夫が心をはたらかして、それで助かるような、ちょろこ佛法ではない。本願力ではない。阿弥陀如来 親様ではない。

稲垣瑞劔師「法雷」第87号(1984年3月発行)

生死は佛の御いのち㈢

 「生を明らめ、死を明らめ」るとはどういうことであるか。  いわく、前述のごとく、まず因果を深信して、業報の恐ろしいことを思い、無常の迅速なること、生死の問題の重要なることを深く思念して、それからのことだ。  それからどうするのか。それから十悪を慎み、十善を修し、「諸悪莫作」の金...