2024年10月25日金曜日

生死は佛の御いのち㈧

 凡夫の眼に映る宇宙間の森羅万象には相反する二面があって、この二面があるから「存在」しておるのである。「有」(存在)は「有」のまま「無」であり、「無」は「無」のまま「有」である。
 この真理は「無我」「真空」の世界に於いてのみ実証しうるのである。この実証の世界に於いては宇宙間の相反する二面は、相反するまま「不二」の境地に到り、「不二」のまま相反する多種の様相を呈しておるのである。
 「生死」は「生死」、「涅槃」は「涅槃」と見るのは「不二の二」であり、「生死即涅槃」と見るのは「二にして不二」の世界である。この辺の呼吸がわからぬと、佛教はわからない。

  「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛の家になげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをも、ついやさずして、生死をはなれて佛となる。」

とは「無我」を実証した風光である。「佛」とは一念心の清浄にして「無分別」「無念」にして「無我」の心境をいうのである。それを「佛のかたよりおこなわれて」と言うのである。
 「無我」は佛法の面目である。また実に宇宙万有の実相である。「無我」に「我」を執ずるを「凡夫」というのである。「我」(または執着)を払拭するならば、物とともに自然にして、すなわち「佛」であり、涅槃である。
 「我執」をもって見たる生死は、迷える者の見る生死であって、「無我」の聖者の見たる生死は、「生死すなわち涅槃」としての生死である。生死に二つはない。ただ見解の相違のみである。故に臨済禅師は「真正の見解」を強調されたのである。
 「真正の見解」をいかにして得るかといえば、戒律と禅定と智慧の三学のうち、特に「定慧」によらなければならぬ。「定慧」の完成されたところ、すなわち「真正の見解」である。このとき生死を離れて佛となるのである。

 終わりに、浄土門において生死を離れるものは、「無我の念佛」「無我の信心」によりて生死を離れるのである。如来の仰せを聞くところ、南無阿弥陀佛という大智大悲の声を聞くところ、自分が行じていることも忘れ、信じていることも忘れ、己を忘れて、南無阿弥陀佛と称え、よろこぶのである。
 自分が行じて生死を離れるに非ず、自分が信じて生死を離れるに非ず、南無阿弥陀佛という大智大悲の「よびごえ」のうちに信心を彰わし、念佛の行は南無阿弥陀佛に帰り、ここに南無阿弥陀佛に帰入して、生死を離れるのである。これを『歎異抄』には、

 「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて往生をば遂ぐるなり」

といい、また

 「ただ念佛して弥陀に助けられまゐらする」

というのである。要は誓願不思議を不思議と信ずるところに生死の解決がある。
 「禅」と「念佛」、いずれにしても幾十年、蒼龍の窟に下り、荊棘林を通過しなければならぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年10月20日日曜日

生死は佛の御いのち㈦

  さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、

 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る。

 ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ、ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛の家になげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをも、ついやさずして、生死をはなれて佛となる。たれの人かこころにとどこおるべき。

 佛となるにいとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するここころなく、一切衆生のために、あわれみふかくして、かみをうやまい、しもをあわれみ、よろずをいとうこころなく、ねごうこころなく、心におもうことなくうれうることなき、これを佛となづく。またほかにたずぬることなかれ。」

と。
 一方では、「生死はすなわち佛の御いのちなり」といい、ここでは「これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり」という。
 それならば、どうすればよいのであるか。この辺が佛法の難しいところで、生死に溺れ、生死に迷い、生死に執着すれば悪を造りて、またまた生死を繰り返さなければならぬ。
 さりとて、生死をいとうて、涅槃が生死の外にあると思い、これにあこがれているのも、これまた「我執」から出たところの相対認識の迷いの見証である。

 要は、自分がひとたび「無我」すなわち般若の空智に帰入するならば、生死は生死まかせて、これに執着せず、また生死海に沈没しておる人を救うために、自ら生死に入って、生死の林に遊ぶことができるのである。菩薩には生死の苦しみも衆生のためならば、またこれ楽しみである。
 生死に著するは、もとより迷いである。迷いの世界を悟りの世界と別見して、涅槃を憧れているのもまたこれ迷いである。
 「無我」の大悲心の前には、「迷悟一如」と見つつ、しかも迷える衆生を救う菩薩の行動に出るものである。「善悪一如」と見て、しかも「諸悪莫作」は常に生きておるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年10月15日火曜日

生死は佛の御いのち㈥

 「生死は佛の御いのちなり」とは、これは甚深微妙の味わいがある。これが本当の佛教、菩薩道というものである。
 一体凡夫は、生死を離れて涅槃に到って楽でもしようと思っているのが一般であるが、いよいよ佛法に徹し、「無我」の心境から「大慈悲」が顕れてみれば、涅槃に住して生死をよそ目に見て、衆生の苦しみを傍観しておるようなことはしない。それならば、それは佛でもなく、悟りでもない。
 『臨済録』にあるごとく、

 「家舎(涅槃)を離れて途中(生死)に在らず、途中に在りて家舎を離れず」

となってこそ、「無我の大悲」の佛行と言い得られるのである。これが「菩薩道」というものである。菩薩道のほかに佛道があるのではない。
 生死を傍観せずに、生死と一如になって、

 「お前が地獄へ落ちるならば、自分も地獄へついてゆく」

となってこそ佛というものである。

 これを分かり易く言うならば、生死を離れるには、生死の世界で修行し、生死を修行の資料にしてこそ、生死を離れることも出来るのである。

 「地によって倒れるものは、地によって起きる」

 生死を厭うて、どの世界に行って修行して佛に成るのか。生死にも御恩があるではないか。罪悪にも御恩があるではないか。
 また、生死を離れて涅槃に到るというのが常識であるが、涅槃に到り、佛と成って、どこで佛としての活動をするつもりであるのか。説法度生は必ず生死海のうちでなければ、説法も度生も出来ないのでないか。

 してみれば佛は生死海に於いてのみ、佛としての活動をなし得るのである。故に佛眼に映じた生死海は、佛として最上の道場である。佛の活動のほかに佛はない。
 かく考え来たるとき、佛の家郷は永久に生死海である。佛の活動は佛の御いのちである。この辺のことを「生死は佛の御いのちなり」と申されたのである。
 そうは言うものの、ひとたび通身に汗して、大死一番「無我」に徹しなければ、ただ空言に終わってしまうであろう。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年10月10日木曜日

生死は佛の御いのち㈤

 道元禅師また曰く、

 「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさき(前)あり のち(後)あり。かるがゆえに佛法のなかには、生すなわち不生という。滅もひとときのくらいにて、またさきありのちあり。これによりて滅すなわち不滅という。かるがゆえに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかいて、つかうべしということなかれ、ねがうことなかれ」

と。この思想は『正法眼蔵』の「現成公案」にもでているのであって、「現成公案」には、

 「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり、たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。」

とある。
 凡夫は「生」が「死」になったように思っている。それが間違いで、「生も一時のくらい」であり、「死も一時のくらい」であり、前後際断しているというのである。
 『正法眼蔵』の「有時」には、

 「時時の時に尽有尽界あるなり」「生も全機、死も全機」

と申されて、すべての現象あるいは対象は「一即一切」であって、その時その時に応接したらよいのであって、これに執着して煩悩を起こすべきではない、という意味である。

 「無我」の反対に「我執」のあるところに執着が起こる。執着のあるところに悪業煩悩が起こるのである。
 「無我」とは執着を放下することである。禅師も「愛着あれば花は散り、草は譏嫌に生うる」と申しておられるのは、この辺の消息を言われたものである。
 三祖大師の『信心銘』にも「至道無難、唯嫌揀択」とある。「揀択」とは愛憎のことである。人間も「無我」に徹して愛憎が無くなったら大したものである。愛憎あり、執着のある間は、生死輪転は絶えないのである。
 これを思うとき、「生死を離れる」ということは、凡夫として至難中の至難である。ここに大死一番の精進を要する次第である。至難であるからといって修行しないような人生は、無我の智月を仰ぐことは永久に出来ないであろう。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2024年10月5日土曜日

生死は佛の御いのち㈣

 凡夫は「生死」は苦しいもの、いやなもの、厭うべきものであると思い、涅槃は楽しいもの、善きもの、望ましいものであると思っているが、それは凡夫の価値判断である。
 これに反して「無我」「無心」の心境は絶対価値に体達した境地であるから、物を二つに見て価値判断をやらない。そこのところを、

 「生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし」

と申されたのである。絶対価値の世界は平等価値の世界である。この世界は「個個円成」、相対即絶対、絶対即相対の世界である。この世界に悟入するのには「無我」「無心」でなくてはならない。
 「無我」の反対は「我執」「我愛」「我慢」である。「我が身が可愛い」というのが「我」である。「我」のあるところ、一切の悪業煩悩は入り乱れて起こり来るのである。無我になったところを「至道無難」という。

 佛と凡夫とは、どれだけ違うかというと、佛は「無我」、凡夫は「我執」である。ただこれだけの違いである。
 これだけの違いが、一は生死に迷い、一は「生死なし」「生死に迷わず」となるのである。
 人間が無我に達して、初めて「生を明らめ、死を明らめ」たと言い得られるのである。
 道元禅師は「この生死は、すなわち佛の御いのちなり」(正法眼蔵「生死」)と申された。この境地をよくよく参究するがよい。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...