2026年5月12日火曜日
2026年3月5日木曜日
2026年2月1日日曜日
2026年1月12日月曜日
2025年12月1日月曜日
2025年11月3日月曜日
2025年10月2日木曜日
2025年9月2日火曜日
2025年8月1日金曜日
2025年7月25日金曜日
大海を仰ぐ
佛法を離れている
人生と佛教、社会と佛教といったことを、当節はやかましく論じたてるのであるが、その論ずる人が「信」もなく「涅槃」を目標としておらぬから、話は根本的に佛教を離れている。
佛教が何の役に立つか
佛法を聞いて、それが人生の何の役に立つかという人が多い。佛法が無かったら、心が乱れ、悪いことをして命までも短くする。如来の護りをよろこび、日々心をしずかに仕事に勤しむことができるのは、佛法のおかげである。今日のいのちは、佛より賜ったものである。これほど大きな利益はない。世の中の人は、水に入らずして水泳を論じておるようなものである。
煩悩にも恩がある
逆境も苦しみも、考えようによっては、それがあるから、私が今日まで命をつないでおる。意思に対して反抗するものがなかったら苦しみはない。苦のなきところ楽もない。死骸同然の生活であろう。そうでなかったら、「我執」からいろいろ悪い事ばかりするであろう。煩悩もあり、苦しみもあるから「涅槃」に到ることができるのである。煩悩にも恩がある。
如来の家
「三界に家なし」とは私のことである。極楽に参らせていただいたら直ぐに本願力に乗じて衆生済度に十方に身を現じて、如来のお手伝いをさせていただく。それが如来の家というものである。
今しばらくの辛抱
佛法の大海には、いろいろ深いむずかしい真理があるが、今しばらくの辛抱じゃ。往生すれば、直ぐに佛眼をいただくから何もかも手に取るように分かるであろう。凡夫の皮を被っておる間は、真如も実相も、天上の月である。
天地は一枚
佛法は無我である。佛に成れば、我執我愛なき清浄真実の活動がある。我執なき天地は一枚である。柳は緑、花は紅である。
迷いの根本
神が天地万物を造ったということを信じておるものが多い。「何のために造ったか」と問う人が少ない。それに答え得るものはない。
もとより天地創造説は、人間の妄想から出た説である。人間の迷いの根本は、こういうところにある。
稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)
2025年7月20日日曜日
相場を知らぬ
願力回向の信行
一如法界の真理は、凡夫には分からぬ。ただただ不思議であるというより外はない。阿弥陀如来は、真如を観照して真如の功徳を我らに得せしめたもうのである。本願力回向の大信心と大行とが、それである。
凡夫の実態
人間は、罪も深いが第一に散乱放逸である。無慚無愧である。とかく凡夫は、頭の中ではからう。佛智の不思議をはからう。「はからい」が往生の邪魔をするのである。
凡夫の相場
凡夫は、自分が凡夫でありながら、凡夫の相場がなかなか極まらぬ。極まらぬものだから、佛のありがたさも分からぬ。凡夫の相場は、散乱放逸と無慚無愧である。
おれにまかせよ
如来様は、凡夫がいろいろとはからいをやっておるのをあわれに思し召して、「俺にまかせよ。かならず無上佛に仕立ててやるぞ」と仰せられる。
無碍の佛智
迷うにも法がある。悟るにも法がある。凡夫の世界には凡夫の法がある。如来の世界には本願力の法がある。如来は本願力で助けたもうのである。とかく凡夫は、浅知恵で無碍の佛智を疑うから佛には成れぬ。
涅槃と成佛の教え
「涅槃」を指し示した宗教は、佛教より他にはない。成佛することができると教える宗教も仏教以外にはない。「涅槃」を説き、それに至る大道を細々と説いたところに佛教の勝れたところがある。
稲垣瑞劔師「法雷」第91号(1984年7月発行)
2025年7月15日火曜日
他力には無理がない
願力成就の報土
人間の一切の生活、一切の思い、一切の行いは、相対の見から来る。相対の見を持った凡夫が、往生の因を自分の胸の内に見出だそうとしても、それは天上の月をつかむようなものである。「願力成就の報土」に往生するには、ただ十八願の「本願力のよびごえ」に引かれて参るよりほかに道はない。
純粋の佛因
「はからい」は、凡夫相対の見方であり、考えである。「はからい」の生活の中に、ただ本願力の「よびごえ」は、はからいでない。純粋の佛因なのである。衆生は、「よびごえ」を聞き、信心歓喜、乃至一念して、無量光明土に往生するのである。
如来のまこと
「よびごえ」は、如来の本願力である。「よびごえ」は、南無阿弥陀佛である。如来の「まこと」は、「よびごえ」である。如来の「まこと」は、功徳無尽である。それは「如来の智慧海」であり、「回向利益他の真実心」である。無明の長夜を照らすものは、如来の「まこと」である。
むねせまり やるせなきとき ただひとり
まことの慈悲の みおや たのもし
おもちゃの鉄砲
露命は今宵も知れぬ。ぐずぐずしておれぬ。生死の苦海は浪が荒い。自分の「はからい」は、子供のおもちゃの鉄砲のようなものである。おもちゃでは、罪業深重・散乱放逸の軍艦は打ち沈めることはできぬ。又おもちゃの車に乗って「涅槃」の覚城へ到ることはできぬ。
無体験の体験
禅にしても、他の教えにしても、「悟り」や「信心」は、文字言句ではない。馬を水際まで引っ張っていくことはできるが、水の味は飲んだ馬だけが知っておる。信心の味も、人々各々の体験である。自力の体験でないから無体験の体験である。
願力自然
自然というは、願力自然である。如来の方から言えば、少しも無理がない。凡夫は「はからい」をやって願力自然の邪魔をしておる。それで往生を仕損ずる。
ほんまに「ただ」
願力自然とは、佛智不思議を内容とした、如来の「よびごえ」であり、誓願力である。そのおこころがいただけると、「ほんまに『ただ』であった」「ほんまに不思議だなあ」が顕れてくださる。それが願力自然というものである。
稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
2025年7月10日木曜日
親に連れられてゆく
まことが大道
如来の「まこと」一つが、涅槃に到る大道である。如来のまことの門が、私一人のために開かれてあるのに、何をくよくよ門の外で泣いているのか。それ「南無阿弥陀佛」と親様が迎えに来られている。
すうと透ればよい
門はいつでも開いておるけれども、自分の方でなんとかして開けようとするところに、門は開いたまま閉まってしまう。開いておる門はすうと透ればそれでよい。私共はよう透らぬから、如来様が手を取って、連れ込んでくださる。
如来の功徳力
自力修行によって涅槃に到る自力の道と、涅槃に到った如来の功徳力を受けて佛に成る他力の道とは、振り合いがちがう。弥陀の本願を説くために、お釈迦様はお出世あそばされたのである。
日は暮れてしまう
心の中の佛を見付けることは、凡夫のできることではない。
「心性もとより浄けれど この世はまことの人ぞなき」
というのが実際である。影法師を追い求めている間に、日は暮れてしまう。凡夫の心をいくら磨いても、鏡にはならぬ。瓦のまま鏡にしていただく法がある。
無明も佛性
佛になったら無明も佛性であるが、凡夫が今日それを言うて悟ったような気になっていては、味噌もくそも同じになってしまう。
第一の関所
浄土真宗の行者の第一の関所は「はからい」である。最後の関所も「はからい」である。人間は、「はからい」がどんなものやら知らずして、はかろうておる。
第十八願のよびごえ
「はからい」のすたらぬのは、佛樣が信ぜられぬからである。佛樣は、無限の大慈悲力と大智慧力と、大誓願力の結晶である。佛法とは、「第十八願のよびごえ」よりほかの何ものでもない。往生せしむる力は唯だ是れ一つと、とくと合点するがよい。「よびごえ」があればこそ「往生一定、おんたすけ治定」である。わかってからでない。願力の不思議で助かるのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
2025年7月5日土曜日
2025年6月15日日曜日
和讃と歎異抄の味わい⑼
六、称名念佛をはげむ人
滋賀県にある一人のお坊さんがおられる。なかなか立派な、まじめな御僧である。そのお方は、第十八願の純粋他力の信心を長い間求められたが、どうしても「佛智即行」とか「尽十方無碍光如来一法身(いっぽっしん)の独立」とか「本願力一つ」とか、また法然上人のお歌のように、
「ききえては 野中に立てる 竿なれや かげさわらぬを 他力ぞといふ」
といった白木の念佛、自力の雑わらぬ念佛、南無阿弥陀佛そのままの念佛のこころ、すなわち誓願不思議の大悲心が、美しくいただくことができなかったということである。そこでそのお坊さんは、
「自分はどうしても第十八願の信心がいただけぬ。ゆえに真実報土へは参られぬ。自分は化土往生でも結構である。念佛すれば往生は間違いないから、云々」
といって、神妙に毎日お念佛を、ご自身も励み、また門徒の人たちにも「お前たちも念佛せよ」と勧めておられるということである。
もとより人の噂であり、そう言われる坊さん自身も、いつの頃か「おしへざれども自然に真如の門に転入」しておられることであろうが、噂だけで判断すると、教化の一方便かもしれないがどうも親鸞聖人の化風とはちがう。やはり「ただ念佛して」の本当のおこころを人に伝えるべきではなかろうか。
稲垣瑞劔師『法雷』第93号(1984年9月発行)
2025年6月10日火曜日
和讃と歎異抄の味わい⑻
五、ただ念佛して
『歎異抄』を独訳された池山栄吉先生は、非常に信仰の篤い母に育てられた。先生がまだ青年の頃のある日、母君は池山先生に向かい、
「お前がどうしても信心が得られなかったら、まあ、それでもいいわ、わたしが先にお浄土へ参り、還相回向で再びこの世に出てきて、どの人よりも先にお前を済度してあげるから」
と申されたということである。このような母に育てられたものだから、池山先生は若い時から熱心に信仰を求められた。でも他力の純粋信仰はなかなかむつかしいもので、先生は非常に苦労せられた。それでもどうしても信心をいただくことができなかった。ある日、ふと『歎異抄』にある、
「ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし」
という句に眼をつけられた。それからというものは、一途に、ただ念佛して怠りなかった。ところが、
「ただ念佛して」
の中味は、不可思議の本願力であり、不可思議功徳の南無阿弥陀佛であるから、いつの間にやら、不思議に大信心に住し、往生の一段においては今一定(いちじょう)の思いになられた。これ全く、如来大悲の誓願力の然らしむるところである。聖人は『和讃』に第二十願のこころを、
「定散自力の称名は 果遂のちかひ(二十願)に帰してこそ
おしへざれども自然に 真如の門(十八願)に転入する」
と仰せられた。池山先生が、ただ念佛して、第十八願の「本願力一つ」「南無阿弥陀佛一つ」という美しい純粋他力の信仰に入られたのも、法徳自然の妙益(ほっとくじねんのみょうやく)である。聖人が、聖道門より十九願へ、十九願より二十願へ、二十願より第十八願へと転入されたのも、是れ全く法徳自然の妙益である。仰ぐべく信ずべきである。
『歎異抄』の「ただ念佛して」のこころは、もとより定散自力の称名を勧められたものではない。念佛往生の極致を申されたのであって、ただ是れ誓願不思議を信じ、南無阿弥陀佛の威神功徳不可思議力に腹がふくれ、法然上人のおことばに信順された聖人の大信海をのべられたものである。
稲垣瑞劔師『法雷』第93号(1984年9月発行)
2025年6月5日木曜日
2025年4月15日火曜日
和讃と歎異抄の味わい⑺
禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある。出来上がった禅僧は決してお経を粗末にしない。
かつて、天龍寺の管長 峨山和尚に十五年間ついておられた但馬第一の碩学 福山東山という禅師がおられた。ある日、私が禅師を但馬の禅室に訪問したとき、禅師は私に向かって、
「この頃はお陰様で、どんなお経を読んでも、なるほどゝゞとうなづけるようになった」
と申され、「若不生者 不取正覚」で三時間快談したことがあった。
佛法は、お経や祖師聖人の聖教を敬い尊ぶところに信心はおこる。佛語を措いて信心の確立はない。また、一句の法門を徹底的に、何十回何百回となくいただき、明け暮れ、念頭から離さず、何十年とそれを憶い念いするところに、大信心の暁に出ることができる。
『歎異抄』で申すならば、
「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて往生をばとぐるなり」
「ただ念佛して弥陀に助けられまゐらすべし」
「念佛は行者のために非行非善なり」
「念佛者は無碍の一道なり」
「念佛には無義をもて義とす、不可称不可説不可思議のゆへに」
などの句である。どの句でも、心の底からうなづかれるまで聞き、学び、究め、憶うことが大切である。やりおおせたならば、元の木阿弥、阿弥陀如来は前にばかりおられないで、心の底へ回って、私のすべての思いを無益にしてくださる。それも自身の往生とにらみ合わせて深く味わうべきである。
死を念い、自身の往生を思わずしてお聖教を読み、お聖教を講釈したところで、それは上辺のかざりで、何の役にも立たぬ。ある意味において、お聖教をもてあそぶ人である。
これに反して、死と組み打ちしてお聖教をいただく人は、眼光紙背に徹するものがある。
「『末代無智』と『聖人一流』の御文を百遍いただいてみよ、そしたら信が得られる」
といった妙好人がある。当節は、どの宗派の人も、僧俗共に死と組み打ちしておる人が少ないように見受けられる。悲しいことだ。
稲垣瑞劔師『法雷』第92号(1984年8月発行)
登録:
投稿 (Atom)
-
「いくら聞いてもこちらは、ありがたいこともなく、なんともない。ありがとうなられなくとも、それでよろしいか」 なられたらよし、なられなければそれでもよし。お念佛も出ればよし、出なければそれでよし。今、汝は死の床にあるのでないか、死の床に就いている大病人に、注文はせぬぞ。 苦惱...
-
親鸞聖人のえらいところは、高僧の説を正しく信じ、正しくお説き下されたところが聖人のえらいところである。 親鸞聖人の『教行信証』は、一字一句 如来さまのお慈悲の光明である。 それを末世の衆生に知らせてやりたいと思し召して、一生涯食うものを食わず、着るものを着ずして、千辛万苦の...
-
心も変化すれば、身も変化する。また世界も変化して一瞬も停止しない。変化のうちに安心立命はない。変化は変化のまま捨てておいて、すべてを如来の大慈悲にまかすところに安心がある、安堵がある。まかし得ざる私はどうすればよいのでしょうか。 ただ仰げ、ただ信ぜよ。佛に無量の功徳あり、佛に...
























