佛心は、自分が聞こうと思って聞かれるものではない。信じようと思って信ぜられるものではない。和讃に曰く
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
佛の御名を聞くひとは ながく不退にかなふなり」
と。
不惜身命で聞くと、聞こえて下さる。佛心が徹れば、聞いたということもなく、信じたということもなく、己れ忘れて名号を讃嘆する。それを「名号を聞く」というのである。
良い師匠に就き一生懸命にお聖教を拝読すると、名号が聞こえて下さる。それを「聞其名号」という。
親鸞聖人が佛智の奥蔵を開いて、本願成就文を釈して下さっておる、あの「信巻」を、歓喜の涙を以ていただくと、「名号」が聞こえて下さる。それを「信心」といい、また「念佛」という。
「称えて参ろう」「信じて参ろう」といったようなものではない。凡夫自力の「はからい」を遙かに超えておる。
「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」
「弥陀の名を 聞きうることの あるならば
南無阿弥陀佛と たのめみなひと」
稲垣瑞劔師「法雷」第15号(1978年3月発行)